どうも、2025年4月某日に日帰りで兵庫県丹波篠山市と丹波市に行っていました。


駅近くで車をピックして篠山城跡に行きます。

慶長14年(1609)に江戸幕府の天下普請により築城された平城
江戸期は松平一族と青山家が丹波篠山藩主を務めました。
下の写真は現在の主要登城口の北廊下門跡


西側内堀

中門跡

鉄門跡
復元された冠木門があります。


二の丸御殿大書院玄関
二の丸御殿大書院は明治後も取り壊しを免れていましたが、大戦末期の昭和19年(1944)に失火で焼失。
その後2000年に大書院や玄関が古写真や平面図、実測図を元に復元されました。

井戸

三の丸東側跡

二の丸御殿跡と復元された大書院

三の丸北側方面

三の丸北西部方面と内堀

二の丸井戸

埋門跡


埋門西側
石垣上にはかつて塀があり左奥は本丸隅櫓がありました。

本丸門跡
江戸期は多聞櫓があり下に門を設けていました。

青山神社
明治15年(1882)創建の神社
明治維新後に旧藩士たちが青山家の祖先青山忠俊を祀るために本丸跡に創建し、昭和5年(1930)に江戸中期の篠山藩主で藩政及び老中として幕政でも活躍した青山忠裕を合祀しました。

本丸跡
四隅の櫓と多聞櫓以外の建物はなかったといいます。
天守は築城中に設置が中止となり、完成していた天守台には小ぶりの櫓が置かれました。



天守台

天守台に登ります。



多聞櫓跡


本丸跡

二の丸跡


厠

二の丸石垣

内堀

三の丸から本丸南側石垣

本丸石垣と天守台

飯のイベントがやっていたので昼食タイム


城下に向かいます。

小南家長屋門
江戸後期竣工の長屋門
損傷が激しかったことで2005年に修復工事が行われました。


河原町妻入商家群
篠山城下の商人町
江戸から明治の建物が数多く現存します。


西坂家住宅


川端家住宅


丹波古陶館

鳳凰会館

小林家住宅


路地




普門山観音寺
永禄5年(1562)、八上城主波多野晴秀が崇敬していた観音堂を城下に移築して寺院として開祖したのが起源
江戸初期の篠山城築城に合わせて八上城下より現在地に移転してきました。


迂回ルート

篠山城東馬出
篠山城に存在した3箇所の馬出の1つ

公園として整備されています。



篠山小学校出入り口

大書院の見学。

火事装束
青山家近習を務めた吉原家に伝わる火事装束



手作り甲冑

御殿廊下

草花小禽図屏風
製作者は江戸後期の木挽町狩野家当主、狩野惟信


寛文12年(1672)鋳造の梵鐘
形原松平家出身の4代藩主松平康信が城内の道場にかけ、その後京都の寺社を転々とし昭和末期に篠山城に戻ってきました。


しっかり松平若狭守康信と刻まれています。

二の丸御殿板襖
江戸後期作成の襖


復元された上段ノ間と次ノ間
江戸初期の屏風絵を転用して当時の室内を再現しています。




南馬出跡


内堀

藩校振武堂跡


織田さんの家

樋口家住宅

昭和後期までは今以上に当時の建物が存在していました。



一般公開している武家屋敷もあります。



原家住宅


佐藤家住宅




高城屋敷門
移築された八上城薬医門

大手馬出跡
唯一完存していない馬出

土塁と堀の形状がわかるようになっています。


旧篠山町役場
移動して八上城跡に向かいます。

室町〜戦国期にかけて丹波国の有力国人だった波多野氏により築かれた山城
永禄年間には畿内有力者のら三好長慶や松永久秀の攻撃を受けて占拠されますが、同年代中に奪還しました。
天正7年(1579)には織田信長の丹波侵攻を受けて、城主波多野秀治は毛利氏や赤井氏の援助も受けるも織田軍の明智光秀指揮の兵糧攻めに遭い落城。秀治一族は拘束され安土城下で処刑されました。
以後は丹波領主となった光秀配下の明智光忠が城代で入り、山崎の戦いでの明智氏滅亡後は江戸期の前田茂勝が短期間城主となりますが改易後は廃城になりました。

登山路は複数あります。
今回は主要な曲輪を通過する右衛門コース。

春日神社

登山口
ここから頂上本丸まで約45分らしいけど、写真見直したら20分ぐらいで着いてた。

主膳屋敷跡
波多野氏滅亡後に入城した城主が生活していた御殿跡
主膳の由来は慶長7年(1602)に入城した前田茂勝の通称から付けられました。

茂勝供養塔


伝 鴻の巣
西からの敵に備えて設置されたという番所跡


正面の山が本丸

伝 下の茶屋丸
西からの敵の攻撃に備えた陣地

伝 上の茶屋丸
ここも陣地跡とされています。



右衛門丸跡
城主の屋敷跡
戦時は周辺の山との連絡や指揮を発令する本陣として機能していました。
石垣は当時のもの。



涼御殿跡方面

三の丸跡
南側への防衛拠点




二の丸からの眺め

ポチポチ点在する山は八上城防衛地として城や砦が築かれていました。


本丸方面

本丸跡
戦時は全兵の集合地とされ、周辺の山城と砦との連絡指揮号令していました。


本丸から岡田丸跡


大堀切や水の手曲輪方面
今回は時間の関係でここまで。

岡田丸跡
波多野氏重臣岡田某の屋敷跡

撤収します。

村上周防守忠勝墓所
越後村上藩2代藩主村上忠勝の墓地
家中の騒動を治めることが出来ず改易されて、篠山藩に流罪となり同地で病死しました。
一説には、徳川家康秀忠親子から冷遇されていたという松平忠輝に近しい存在だったため排除されたとも。

停めれそうになかったので停車中に撮影。

今福の隕鉄落下地点
明治37年(1904)4月7日の早朝に落下した隕石
落下した隕石は当時の京都帝国大学に持ち込まれ、解析の結果隕石としては鉄分が多くニッケルの含有量が基準より少なく表面も隕石特有の模様がない珍しい部類と判明。
その特異性から「隕鉄 岡野号」と称され、現在は京都大学総合博物館に保管されています。


落下地点


落下地点から外を眺める。

黒井城
戦国期には丹波の有力戦国武将赤井直正の居城となり、丹後や但馬侵攻の拠点や織田軍の明智光秀との戦闘が行われました。

黒井城では2度光秀と赤井氏の交戦が行われ、1度目は城を包囲していた光秀側の波多野秀治が離反したことで勝利。
2度目は直正はすでに病没しており、赤井当主の忠家は再度光秀と戦いますが敗れて落城しました。
落城後は丹波領主となった光秀重臣の斎藤利三に赤井城がある氷上郡を統治させますが、山崎の戦いでの敗死後は羽柴秀吉配下の堀尾吉晴が入城するも後に廃城となりました。

供養塔

The中世山城

春先には来たくない、花粉症のため。

本丸方面

登っていきます。

中腹部から丹波市市街地方面。

赤門
元は城下にあった薬師如来堂の門を移築したといいます。

赤井氏招魂碑
赤井直正とその父時家、赤井氏の祖先にあたる源頼信の名前が刻まれています。

石踏の段跡

城跡にはこのような手動のフェンスが点々とあります。
熊などの野生動物の史跡内への侵入を防ぐために設けられています。

東曲輪跡
立派な石垣が現存。


三の丸跡

石垣

二の丸から本丸方面

本丸前

本丸石垣

土塁

本丸跡


戻りのルート


太鼓の段跡

黒井城主赤井氏供養塔

坂崎出羽守正頼七世孫 后嵐雲翁墓
この坂崎出羽守は、宇喜多一族で石見津和野藩主で千姫を誘拐しようとした坂崎直盛に関係がある?

興禅寺
黒井城の砦として城主赤井直正が改修したといい、戦国期の縄張り色が残るお寺です。



春日局産湯の井戸
徳川家光の乳母で江戸幕府の大奥の祖となる春日局は斎藤利三の娘として同地で産まれました。


境内を囲うように作られた堀と高石垣

正徳3年(1714)に幕府の許可を得て柏原藩が築造した陣屋
江戸後期に再建された御殿の一部と長屋門が現存しています。

柏原陣屋の表門
陣屋内で唯一築造当初から現存する建物です。


表御殿
文政3年(1820)再建の表御殿
明治期に御殿の大半が解体されましたが、唯一表御殿は保存されました。

陣屋のこちら側は昭和期の改築部分

地面には解体された御殿の区画がパネルとコンクリでわかるようになっています。


伝 極楽寺建物礎石

田ステ女石像と旧柏原町道路元標

織田信包像
織田信包は織田信長の弟で、同じく有楽斎長益とともに兄信長から重宝された人物
当初は伊勢津領主でしたが、豊臣秀吉の怒りを買い改易された後に丹波柏原領を与えられ柏原藩祖として藩内を統治しました。

小島省齋顕彰碑
小島な江戸後期から幕末にかけて、柏原藩の藩校設立や幕末の動乱を勤皇派で統一させた人物

旧氷上高等小学校校舎
明治18年(1885)竣工の学校校舎
小学校の後には病院や女学校校舎としても使われ、兵庫県内でも貴重な類となる明治期の教育機関最古級の建物です。


江戸初期に大和宇陀藩から移封してきた織田信休以降の歴代藩主とその家族の墓
信休は織田信長次男の信雄の子孫で、信長の弟信包の子孫が藩主だった柏原藩を継ぎました。

中央右が9代藩主織田信旧、その左が信休、さらに左が2代信朝

右が4代信憑、左が5代信守

右から7代信貞、6代信古、8代信敬

一族の墓

左が9代信民

一族の墓

このまま篠山駅まで移動して福知山線で大阪まで帰宅。