四国滞在三日は高知県を横断しました。
前回の続きです↓
四国3日目の移動
【目次】
- 渡川古戦場跡
- 四万十川
- 幸徳秋水の墓
- 中村城遠望
- 中村御所跡
- 高知駅
- 吉田東洋殉難之地
- 板垣退助生誕の地
- 後藤象二郎生誕の地
- 旧山内家下屋敷長屋展示館
- 高知城
- うみさち 桂浜本店
- 桂浜・坂本龍馬像
- 浦戸城
- 長宗我部元親の墓
- 岬観光ホテル
朝もゴリゴリの雨
でもホテルで傘借りたので史跡巡りは雨天決行。
新四万十川橋
この時点で歩行者に一度もすれ違ってない
渡川緑地と四万十川橋
渡川古戦場跡
一条兼定は五摂家の一条家庶流、土佐一条家当主で土佐西部を支配していた一族。ところが、戦国時代後期には台頭していた長宗我部元親率いる長宗我部軍によって居城の中村城を追放されると、兼定は豊後大友氏と協力し中村城奪還を目的に同地で戦闘が起きました。
結果は一条軍の敗走で終わって兼定は伊予に隠遁し土佐一条家は滅亡、長宗我部氏の土佐統一が完成しやがて四国統一に進むことになります。
古戦場案内は具同公園内にあります
四万十川橋を渡る
四万十川
ここから上流に行くと映え映えスポットで有名な佐田沈下橋がある。
法然寺
中村貝塚
幸徳秋水非戦の碑
明治の思想家、幸徳秋水の碑
ここに来るまで中村が彼の出生地とは知らなかった。
幸徳秋水の墓
正福寺跡
鎌倉初期創建の寺院跡
明治4年(1871)に廃寺になるまでの約600年存続し、明治中頃には場所を移転し再建されています。
中村城遠望
奥の山が中村城三の丸跡付近
時間と天候の関係で中村城はノータッチ。中村城は土佐一条家滅亡後は長宗我部元親の弟、吉良親貞が入城するも2年で病死。
その後年月が経って山内一豊が土佐に入ると、弟の康豊が中村城主として元和の一国一城令で廃城になるまで中村を治めていました。
幸徳秋水生家跡
幸徳秋水が生まれた場所
今は普通の住宅と駐車場です。
四万十市と徳島市を結ぶこの国道、酷道としてそういう界隈で有名?らしい
中村御所跡
関白左大臣を務めた一条教房が応仁の乱の戦火から逃れるために、一条家領の土佐中村に下向したのが土佐一条家の始まり
息子で実質初代当主の房家は下向状態でも貴人待遇の継続、周辺の土佐国人たちを束ねては勢力を拡大し中村を小京都として繫栄させることに成功しました。
ちなみに、房家は長宗我部元親の祖父、兼序が滅ぼされると遺児の国親を保護して一族再興の手助けをしたという説があります。でも後年、土佐一条家はこの国親の息子に滅ぼされることになるのはさすが戦国時代というべきか。
中村御所跡地には一条神社が建っています。
これは江戸初期に、土佐一条家旧臣たちによって旧主家歴代の霊を祀る祠を建てたのが始まり
天神橋商店街
傘をホテルに返して中村駅へ
特急あしずり2000系
高知駅まで2時間弱の移動
宿毛方面からの乗車率がそこそこ高かったので割と混んでた印象
土佐佐賀駅
黒潮町は日本一のカツオ船団がいる町
町の伝統産業が若い世代に受け継がれていて素晴らしいですね。
黒潮町から目指せ日本一!カツオ一本釣り船団「佐賀明神丸」の第1陣が出航【高知】 « プライムこうち - 高知さんさんテレビ
窪川駅
ちなみにホビートレインの一日の運行本数はマジで少ない(写真のは2023年6月時点6:00宇和島発8:09窪川着の始発かつ最終)。上下線とも一日三本ずつの運行、特に宇和島窪川通しは一日一本のみで残りは近永駅か江川崎駅までなので通しで乗る人は注意。
須崎駅
最初ちぃたんのパチモンかと思ったら、しんじょう君が公認でちぃたんはあくまで非公式キャラとのこと。これで色々問題が起きてたらしくて笑った。
でも両方とも同じ作者から生み出された存在というのが何とも言えない、歴史?
高知駅
四国四県の県庁所在地駅で一番利用客が少ない駅
駅舎
小雨の中撮影
土佐勤王党三志士の像
三人とも新時代幕開けの直前で切腹暗殺と非業の死を迎えたが、土佐や近代日本に影響を与えた人物たち。彼らの視線の先には何が見えているのだろうか。
吉田東洋殉難之地
文久2年(1862)武市半平太が結成した尊王攘夷思想の土佐勤王党メンバーにより暗殺された。
東洋暗殺後、土佐藩は一時的に土佐勤王党の影響を大きく受けるも、前藩主山内容堂が藩政に戻ると勤王党への弾圧を強め最終的に武市半平太含む主導者たちへの死罪により藩内の尊王攘夷運動は停滞することになります。
帯屋町二丁目商店街
スタバ 高知帯屋町店
板垣退助生誕の地
跡地は高野寺
後藤象二郎生誕の地
跡地は聖泉幼稚園
旧山内家下屋敷長屋展示館
幕末に山内容堂が城外の土佐藩士7名の屋敷を召し上げて建築した下屋敷跡
足軽長屋と門は当時の遺構
長屋内は無料見学出来ます。
山内容堂公邸跡
下屋敷跡に隣接する公邸跡
明治維新後に容堂が移り住んだ公邸で現在は鷹匠公園として整備。
下屋敷跡と公邸跡
高知城
関ヶ原の戦いで改易された長宗我部盛親に代わって土佐一国を治めた山内一豊以下土佐藩山内氏の藩庁
天守は現存12天守の一つで、特に本丸は国内唯一江戸時代の建物が完全に残っている本丸として名高いです。江戸中期に火災で城内が焼け落ちた後再建され、現存する建物の大半がこの時再建されたもの。
明治の廃城令や大戦末期の高知大空襲で一部被害に遭うも、天守や追手門などは無事残り現在に続きます。
追手門
享和元年(1801)再建の門
渡櫓門下部には石落としが見えます。
桝形内
杉の段石垣
この辺から雨やんでめっちゃ笑顔になった記憶がある。
石樋
高知城特有の設備
降水量が多い土佐では、排水路から排出される雨水が石垣に当たって石垣の劣化を防ぐためこのような工夫が施されています。
鉄門跡
三の丸門跡
三の丸跡
水路遺構や長宗我部時代の石垣が残っています。
奥の石垣は二の丸家具櫓跡
二の丸北側石垣
綿倉門跡付近
二の丸乾櫓台
獅子の段 乾ノ櫓跡
獅子の段 西南櫓跡(左側石垣)
御台所屋敷跡
搦手門跡
外堀跡・搦手門土橋跡
奥の建物と石垣右側が外堀、正面道路が土橋
門内側から
外堀跡
藩校致道館跡
跡地は県武道館があり、入口横には当時の表門と土塀が現存しています。
片方に番所が付属
黒鉄門
本丸跡
本丸には4重の天守と本丸御殿、多聞櫓が現存
この時財布をコインロッカーに忘れて追手門までダッシュして取り帰った
二の丸乾櫓跡
ここの道を下ると獅子の段に出ますが江戸期にはこの道はなかったようです。
廊下門詰門
本丸御殿・多聞櫓内部
そして、川越城本丸御殿は一部のみ現存状態なので完璧な形で残っているのはここだけ。
天守から東多聞櫓・詰門・西多聞櫓を見下ろす
本丸側から詰門を見る
武者走跡から見る天守と東南矢狭間塀
高知城を後にして桂浜行きのバス停まで軽く城下散策。
山内容堂公誕生之地の碑
北會所竝教授館址
江戸中期に8代藩主山内豊敷が開校した土佐藩最初の藩校と土佐藩役所跡
この藩校からはジョン万次郎といった著名人を輩出した。跡地には土佐女子中学高等学校があります。
はりまや交差点
まだ微妙に雨が降ってたのでパチスロ屋で雨宿り、ここの近くにあるバス停から桂浜に移動します。
うみさち 桂浜本店
まずは高知産の貝と魚介ラーメンで腹ごしらえ。
二枚貝なんてこういうところでしか食べないので新鮮。
浦戸砲台場跡
江戸初期に建てられた燈明台を江戸後期の外国船出没に伴い砲台場に整備した場所
桂浜・坂本龍馬像
龍王岬
浦戸城へ
蟹がいた
高知灯台
浦戸城二の段跡
浦戸城
天正19年(1591)に長宗我部元親が岡豊城(と大高坂城)から移動し新しく築城した城
浦戸湾沿いに城下街を整備するも元親死後、家督を継いだ盛親が関ヶ原の戦いで敗北し改易されると代わって山内一豊が入城。ただ、入城してすぐ一豊はこの城から大高坂城跡に高知城を築城したことで浦戸城は廃城になりました。
高知城築城にあたり、一豊は浦戸城の石垣や建築資材の一部を使用したといいます。
天守跡
長宗我部時代は3層の天守がそびえ立っていた。
移転されている当時の石垣
本丸跡には坂本龍馬記念館が建っています
浦戸城井戸
石丸神社
浦戸一揆で戦死した長宗我部旧臣たちを祀る神社
浦戸一揆は、関ヶ原の戦いの後に改易された長宗我部盛親に代わって土佐に入封した山内一豊に対する長宗我部旧臣の反乱。
長宗我部元親の墓
慶長4年(1599)に京都伏見で病死した元親の墓
近隣にある雪蹊寺には長男信親の墓もあるが距離があったので今回はスルー。
とさでん交通バス乗場
バスが遅れててめちゃくちゃ焦る。次のバスまで待てなくて危うく歩いて高知駅まで行きかけた。
夕方の高知駅
土讃線特急「志国土佐 時代の夜明けのものがたり」
幕末の土佐出身の志士たちをコンセプトにした観光列車、今年で運行開始3周年を迎えます。
次高知来たら乗ってみたさある。
御免駅
土讃線からごめんなはり線乗り換え
安芸方面への乗客がとても多かった。
奈半利駅バス停
この時地球で唯一室戸岬の先っちょいる人間になった
岬観光ホテル
この日泊まったホテル
昭和初期に建てられたレトロなホテルで有形文化財の指定を受けています。女将さんの接客も良くて浴場の入浴時間ギリギリでチェックインだったのに延長してくれた。大変感謝。
夕食代わりのポテチとお酒
長宗我部元親の墓近くにあったスーパーで買いだししといてよかった。
翌日は四国滞在最終日。朝は室戸岬、昼は高知市内方面戻って半日史跡巡りをしました。
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