どうも、先日都内に用事があったのでついでに九段下から北の丸公園を散策してきました。
もう皇居や北の丸公園は数え切れないぐらい行ってますがやっぱり見飽きない。都内の史跡巡り先で困ったらとりあえず皇居周辺行けばOK。
日本体育会体操学校之跡
現在の日本体育大学の前身にあたる学校の施設跡
発祥は明治24年(1891)、現在の新宿区成城中学校・高等学校内で日高藤次郎が設立し、国内の体育指導者養成所として機能していました。施設自体何度か移転しており、この九段下も移転先の1つです。
跡地には九段坂病院や千代田会館ビルがあります。
牛が淵
清水門
万治元年(1658)竣工の江戸城北の丸にある門
初代の門は前年の明暦の大火で焼失し、2代目になります。
江戸後期の徳川御三卿の清水家はこの門が由来です。
清水堀
枡形内櫓門
櫓門の上部は後年再建されたもの。
清水門内は古い面影を残しています。
江戸初期は徳川家光の弟徳川忠長の屋敷、江戸中期以降は御三卿の屋敷、明治以降は陸軍近衛師団の敷地でした。
江戸幕府9代将軍徳川家重の次男重好を家祖とする清水徳川家の屋敷跡
江戸期を通して家督相続が実子ではなく養子で行われた家で、江戸後期には11代将軍家斉の息子が4人も当主になるもいずれも短命、もしくは紀伊和歌山藩主に異動などがあり幕末には約20年当主不在の時期がありました。
写真は屋敷表門跡付近で、清水家屋敷は北の丸公園の東側一帯に構えていました。
屋敷跡は北の丸公園西側一帯にありました。
田安門
寛永13年(1636)竣工の門
武道館がすぐ横にあるので現存する旧江戸城遺構の中では知名度は高い方だと思う。
警視庁や東京消防庁の殉職者を祀る慰霊施設
西南戦争で殉職した警察官は靖国神社に祀られましたが、一般犯罪や災害で殉職した関係者は対象外だったことから、現在の文京区弥生地区に創建された弥生神社が起源。
その後は警視庁管轄の神社として都内を転々としていましたが、敗戦後のGHQの神道指令により警視庁の管理から離れ有志の元で現在地に遷座し新たに無宗教の慰霊施設として存続しています。
昭和天皇御野立所
関東大震災からの東京復興の様子を視察するため訪れた場所
北の丸植溜御用地跡
江戸城北の丸にあった緑地跡
植溜は火災の火除け地としての意味もあり、本丸と北の丸のどちらかで火災が起きても食い止める場所として機能していたと考えられます。
池
戦前までは近衛師団の建物がありました。
乾門方面
乾門は明治以降に江戸城西の丸裏御門を移築してきた門
江戸期には門付近には吹上に繋がる上覧所という施設がありました。
旧近衛師団司令部庁舎
明治末期の建築で関東大震災や大戦末期の東京大空襲の被害を免れています。
昭和20年(1945)8月15日には、日本の降伏を阻止しようとする陸軍過激派のクーデター未遂の宮城事件で、森赳師団長と白石通教陸軍中佐が庁舎内で殺害されました。
戦後の北の丸公園開発で撤去の声が挙がるも、近代レンガ建築として保存が決定。改修工事を経て昭和52年(1977)から2020年まで東京国立近代美術館として再利用されていました。
国立近代美術館の機能は石川県金沢市の国立工芸館に移転し、どういう運命か建物は同じく旧陸軍ゆかりの施設となっています。
国立工芸館がある金沢市の史跡巡りはこちら↓
スマホのカメラ保護ガラスが割れてるので残念なことになってます。
東京学生会館跡
昭和21年(1946)から44年(1966)の約20年、都内の大学に通う男子大学生向けに設置されていた学寮跡
竹橋跡
徳川家康入府前から存在したという橋
現在の橋は大正15年(1926)に架けられた橋で、明治初期には橋付近で西南戦争に従軍した兵士たちの反乱「竹橋事件」が起きています。
雉子橋門跡
寛永6年(1629)に築かれた門跡
石垣
警視庁麹町分庁舎と住友商事竹橋ビルの敷地にある石垣
雉子橋門の石垣を積み直したか堀の石垣のどちらかか。
雉子橋門跡外側から
かつての雉子橋門外側古写真
宝田川橋
雉子橋方面
俎橋方面
屋敷内跡