ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

2泊3日北陸史跡巡り 後編【富山県高岡市・小矢部市・富山市】

どうも、前回までの北陸旅行後編です。

最終日は富山県高岡市からスタートで高岡市内や倶利伽羅峠、最後は富山市内を散策します。

前回の続き

senri-nchu.hatenablog.com

senri-nchu.hatenablog.com

 

 

朝食

偏食家にしてはバランスいいと思う。思いたい。

ホテルをチェックアウトして高岡駅南口方面。

高岡は前田利長高岡城のイメージの2強でしたが、アニメ『ゆるゆり』の聖地で顔が秋葉原になりました。

というのも、作者が高岡市出身ということもあり、たびたび作品と高岡市を始め富山県内各所とコラボイベントが開催されているといいます。

はい、私はゆるゆり履修してないので詳しくないです。

前田利長墓所

加賀藩3代藩主前田利常が兄で義父の利長33回忌にあたる正保3年(1646)に造営した墓所

当初は周囲に堀を張り巡らせた砦気質の設計で、高岡城有事の際の防衛拠点として造られました。

現存する戦国武将の墓としては国内最大規模を誇っていました。

令和6年正月に発生した地震の被害が出たため5月時点でも立ち入り禁止でした。

遠くから撮影

前田踏切からあいの風とやま鉄道線路と氷見線キハ40形車両

高岡城外堀

高山右近

右近は豊臣政権のバテレン追放令で所領召し上げられ、初めは小西行長、次に前田利家・利長親子の庇護下にありました。

慶長14年(1609)に利長隠居地の高岡城を築城しますが、慶長19年(1614)に江戸幕府キリシタン国外追放令によりスペイン統治下のマニラに追放されることになります。

高岡城

加賀藩初代藩主前田利長隠居の城

富山県唯一の日本100名城曲輪や土塁、石垣、堀が現存しています。

利長は当初富山城に住んでいましたが、城下の火災で城が被災し魚津城に避難していました。

そこで加賀藩は新たな城の築城の許可を江戸幕府から貰い、当時客将だった高山右近指揮の元で高岡城が築城されました。利長は築城中の城に入城しますが利長が病死したことで頓挫してしまいます。

その後は一国一城令で廃城となりますが、加賀藩が密かに蔵や番所を設けて城郭としての機能を存続させていました。

鍛治丸跡

現在は高岡市立博物館が建っています。

土橋方面と本丸内堀

外堀

明キ丸

現在は高岡古城公園動物園があります。

三の丸跡

現在は東洋通信スポーツセンターがあります。

民部之井戸

今枝民部の屋敷跡にある井戸

土塁や堀を除いて高岡城内に唯一残る建造物遺構です。

内堀

小竹薮跡

外堀跡

貫土橋跡

三の丸と本丸内堀にあった土橋跡

実際には橋はかかっていなかったといいます。

本丸跡

本丸広場には彫刻が展示されています。

射水神社

本丸跡の半分にある神社

土橋から射水神社鳥居方面

二の丸跡

現在は駐車場になっています。

高岡大仏

大沸寺にある阿弥陀如来坐像

高岡工芸の高岡銅器で造られています。

1900年の火災で焼け残った木造大仏の頭部。

時鐘

文化3年(1803)鋳造の大鐘

山町筋

蔵造りの建物が立ち並ぶ町並み

前田利長高岡城下に移住してきた商人たちが暮らした町で、旧北陸道が町中に入るように開発されました。

明治後期の火災で町の大半が焼失した後は、旧北陸道沿いの建物を土蔵造りやレンガ造りで再建され明治後期から昭和初期までの建物が現存しています。

山町ヴァレー(旧谷道文具店)

昭和10年(1935)ごろ竣工した建物

菅野家住宅

明治後期に建てられた高岡の豪商、菅野家の土蔵住宅

同家は幕末頃に廻船で財を成し、高岡銀行や高岡電灯の設立、財界進出を果たし現在も続く高岡屈指の名家です。

建物は1度明治後期の火災で焼失し、再建時は土蔵造りをベースに防火に備えるための造りを取り入れつつ、装飾や材料に拘るなど豪華な造りになっています。

高岡郵便発祥の地

旧高岡共立銀行本店

大正3年(1914)竣工の県内唯一残る西洋風赤レンガ建造物

ルネッサンス様式で建てられ、北陸銀行高岡市店や富山銀行本店として使用されていました。

高岡信用金庫本店

外観は周辺の土蔵に合わせて建てられた近年の建物

旧魚市場

千保川

金屋町

前田利長高岡城下発展のために奨励した鋳物業の職人が住んでいた町

高岡市鋳物資料館

ポストと町並み

天野屋後本陣跡

大伴家持

奈良時代の公卿で万葉集編纂に携わった歌人の一面もあった人物

青年期に越中守として越中国府のあった高岡に赴任し、高岡で歌を残したことを記念して昭和後期に始まった第1回高岡万葉まつりを記念して造られた像です。

ドラえもんの散歩道

高岡市出身の藤子・F・不二雄を記念して高岡の伝統工芸「高岡銅器」で造られたブロンズ像。

このスネ夫のポーズなに?

万葉線待合室にあるドラえもんポスト

こちらも高岡銅器で作られたものです。

この後は倶利伽羅峠に行くため石動駅へ。

石動駅

漫画『エデンの檻』のおかげで石動(いするぎ)が読める。めっちゃストーリーやキャラ好きなんですけど終わり方がは???なタイプの漫画。

駅併設の観光案内所で無料レンタサイクルを借ります。台数に制限あるので注意。

倶利伽羅峠の戦い源平両軍の布陣図

早速この陣地跡に向かいます。

護国八幡宮(埴生護国八幡宮

奈良時代初期の創建とされる神社

木曾義仲倶利伽羅峠の戦い前に戦勝祈願した神社として知られています。

木曾義仲の騎馬像

鳩清水

義仲が戦勝祈願した際、どこからともなく白鳩が飛来しその案内で義仲軍が清水を得たという伝承のある水。

石鳥居

扁額の八幡宮の"八"が鳩になっています。

てっきり鳩の伝承があるから特別仕様なのかと思いましたが、古くから鳩は八幡神の使いとされ、宇佐神宮石清水八幡宮鶴岡八幡宮に代表される全国の八幡宮はこのような様式になっているそうです。勉学不足でした…

石段

戦国末期の武将、遊佐慶親が寄進した石段

社殿

江戸初期に加賀藩前田家が寄進しました。

倶利伽羅源平の郷 埴生口

倶利伽羅峠の戦いや義仲に関する展示がある郷土博物館

茶臼山義仲本陣跡

倶利伽羅峠の戦い木曾義仲本隊が布陣した跡

跡地には小矢部市文化スポーツセンターがあります。

野端将軍塚古墳

奈良時代の古墳

義仲が鎧兜を埋めて戦勝祈願したといいます。

竹亭焼窯跡

江戸後期から幕末まで続いていた焼窯跡

埴生の名家、太田家が邸宅内に窯を造り作陶を続けましたが、3代で廃絶してしまいました。

宮古

6世紀初頭に造られた前方後円墳

発掘調査では富山県内で2件目の埴輪出土、古墳周辺に弥生時代の集落遺構が見られ、古墳が集落の上に造られた可能性があるといいます。

小矢部市メルヘンランド

独特な地名の地域

昭和後期、当時の小矢部市長の発案で市内の公共施設を西洋のメルヘン建築で建てて市のイメージを印象付けようとしました。

メルヘンランドにも地域の出入口にメルヘンな門が構えられ、地名の由来になったと考えられます。なぜかそれを撮影していないミス。

礪波の関

古代の北陸道越中加賀の間に設置されてきた関所跡

倶利伽羅峠方面

ここから自転車で倶利伽羅峠を目指します。

畑にも関所跡の案内板

巴塚・葵塚方面

倶利伽羅峠の戦いで義仲と共に戦った巴御前と葵御前の墓

2人とも義仲の愛妾で葵御前は倶利伽羅峠で戦死、巴御前は晩年に「葵御前と共に眠りたい」と遺言を遺して葵御前の墓があった同地に葬られたとされます。

萬葉公園

このあたりでレンタサイクルのバッテリーが0になって普通のママチャリに成り下がる。

もちろん峠道なのでとんでもなく疲労しました。

矢立松・伝一里塚跡

飲水かと思ったら飲めないタイプの水

砺波山

猿ヶ馬場平家本陣跡

芭蕉

源平倶利伽羅峠古戦場跡

寿永2年(1183)、木曾義仲平維盛北陸道の制圧をかけて戦った古戦場跡

越後の平家勢力を制圧した義仲は越中に進出、平家はこれを食い止めるために4万から7万の軍勢を動員し北陸道に出兵しました。

局地戦では大軍を率いる平家が勝利する場面もありましたが、数で劣る義仲軍は峠での奇襲攻撃を計画。

夜間の奇襲直前に義仲軍が鬨の声と太鼓を打ち鳴らして平家本隊を襲撃、平家軍は不意を突かれ退却しようとしますが事前に別働隊として退路を塞いでいた義仲の忠臣樋口兼光がこれを追撃。

退路を絶たれた平家軍兵は次々に谷底に落ちていき敗れました。

古戦場跡には義仲が牛の角に松明をつけて平家軍に突進させた火牛の計の伝説に因んだ牛の象があります。

地獄谷

倶利伽羅源平供養塔

倶利伽羅峠の戦い戦没者を弔う供養塔

この右の森の中に平頼盛の息子為盛の五輪塔があったのに見落とし。

手向神社石堂神殿

長楽寺跡

倶利伽羅不動寺

この付近から富山県小矢部市ではなく石川県津幡町エリアです。

樋口兼光布陣跡付近

倶利伽羅城跡

加賀一向一揆衆の拠点の1つだった城跡

塔ノ橋

矢立松の古戦場側にある場所

今井兼平の布陣跡。

埴生大池

????????

土砂崩れで道がなくなってました。埴生大池側に通行止めの案内板置いてないしさすがに不親切すぎて泣いちゃった。

喫茶メルト

富山県内に2箇所だけあるメイドカフェの1つ

高岡市が作中のモデルになっているアニメ『ゆるゆり』のスピンオフ作品『大室家』とはコラボ先の1つになっています。

麺類食堂

石動駅北口すぐそばにある麺屋

素うどん

味は本当に普通だった。

それより店出た後にお釣り確認したら明らかに釣り銭間違っててため息出ました。前払いや食券制ではないのでよく確認すればよかった。

石動駅のベンチ

小矢部市産の木材をしています。

この後は高岡に戻り瑞龍寺に向かいます。

瑞龍寺参道

雨がひどいので見学前に避難します。

城端線橋りょう

半田駅ガード下の1.3mほどではないですが低いです。

ゲームスポット207

行脚目的で今年初クレの弐寺

瑞龍寺

慶長14年(1614)創建の曹洞宗の寺院

開祖は加賀藩3代藩主前田利常で義父の利長を弔うために建立した寺院です。

仏殿・法堂・山門が国宝、その他建築物も重要文化財指定を受けています。

総門

正保年間(1644〜48)の竣工

山門

文政3年(1820)再建の門

仏殿

万治2年(1659)竣工

回廊内

法堂内

明暦元年(1655)竣工

大茶堂

類似の建築は国内にもう1例あるのみの極めて珍しい茶堂

法堂外観

仏殿内部

禅堂内

瑞龍寺を後にして最後の目的地富山市に向かいます。

富山駅

あいの風とやま鉄道、北陸新幹線高山線、富山地方電鉄が通る富山県の中央駅

富山軌道線 富山駅停留場

松川

神通川の旧本流を流れる川

元は富山市内を蛇行するように流れていた神通川は、戦国時代後期に富山城主の佐々成政が富山城北側の守備として流路を改修しています。

しかしたびたび氾濫することがあったため、明治後期から昭和初期にかけて治水事業が始まり現在の姿になっています。なお、今の松川の川幅はその時に縮小され、かつての川幅は河川敷も含めると富山市役所一帯から新桜町交差点までありました。

富山城内堀跡

本丸門跡

本丸野面積み石垣

千歳御門

江戸後期の富山藩主前田利保の隠居所、千歳御殿の現存建築

同一様式の建築で現存する例は他に『東大の赤門』で知られる江戸加賀藩上屋敷御守殿門など数例しかない貴重な遺構です。

富山城跡

室町初期ごろに越中守護代の神保氏によって築かれた城

戦国時代には上杉謙信の勢力下に置かれ、謙信の死後は織田家家臣の佐々成政が入城しました。成政の時代に大規模な城の改修を実施しますが、豊臣秀吉越中征伐で改易、最終的に前田家の領有となりました。

その後は前田利長隠居の城になりますが失火で焼失、利長死後しばらくして加賀藩3代藩主の前田利常次男の利次が富山城に入り越中富山藩が成立し幕末まで続きました。

本丸にある天守彦根城犬山城をモデルに建てられた模擬天守

枡形門は震災の影響で立ち入り禁止になっていました。

西の丸

かつてはこの付近に内堀が通っていました。

前田正甫像

富山藩2代藩主前田正甫の像

江戸期を通して越中東西の肥沃地帯を加賀藩が抑えており、富山藩領は現在の富山市一帯だけでした。

そのような状況で正甫は越中売薬と呼ばれる売薬業や新田開発を奨励し、積極的な藩政改革に勤めた人物です。

景雲橋

北側内堀跡に造られた池に架けられた橋

本丸亭

明治中期に建てられた茶室碌々亭との総称

本丸庭園

富山市佐藤記念美術館

富山県砺波市出身の実業家、佐藤助九郎が収集した美術品を展示している美術館

東出丸跡・千歳御殿跡方面

手前の道路一帯が東出丸跡、写真中央の路地奥が千歳御殿跡。

三の丸東枡形門跡方面

二の丸二階御門跡

内堀から本丸方面

土塁側は西の丸

かつては写真中央の石垣と土塁の境界に内堀が通っていました。

西の丸西側堀跡

三の丸西枡形門跡方面

西の丸北西内堀跡

ビルに貼ってあったご当地萌えキャラに反応してしまう。

かに・海鮮問屋 魚どん亭

富山駅とやマルシェにある海鮮料理屋

生白えび丼セット

ホタルイカの沖漬け

滑川や魚津行ってないけど富山名物のホタルイカ。一生箸が進んで美味い。

赤割でアルコール吸収。

chill forest

富山駅から5分ぐらいの雑居ビルにあるシーシャ屋

シーシャ以外にシュミレーションゴルフやサウナも入れるらしい。

特に時間制限ないそうなので時間まで休憩。

プレオープン中で夜チャージ分1500円のみ支払いだったのでアドすぎた。

夜の富山駅

北陸新幹線で東京戻って帰路へ。

 

北陸、歴史的名所にも令和6年正月地震の爪痕が残っていたし直近でも余震があったりとまだ油断出来ない状況だと思いました。

旅程では当初車借りて能登七尾城に行く予定でしたが、地震の影響で見学不可とのことだったので断念。能登半島平時忠に関する史跡もあるので次こそ支援も兼ねて訪問したいです。