ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

遊行寺と藤沢宿史跡巡り【神奈川県藤沢市】

どうも、先月訪問時の内容とやや遅めとなりますが藤沢駅近辺の史跡巡りをしてきました。

藤沢はラーメン二郎やらなんやらで定期的に訪れていますが、史跡巡り自体はそんなにしていなかったので、今回はガッツリと東海道藤沢宿跡や『遊行寺』で知られる清浄光寺を見てきました。

ラーメン二郎湘南藤沢店

気軽に関内二郎行けなくなったので実質ホームの二郎

藤沢宿

東海道五十三次の六番目の宿場

藤沢は江戸期以前から栄えており、古くは清浄光寺(遊行寺)の門前町として、近世は後北条氏時代の交通の要衝でした。

藤沢はそれ以外に源義経に関する史跡があります。

伝 源義経首洗井戸

文治5年(1189)に奥州衣川で自害した源義経、首は鎌倉腰越での首実検後に打ち捨てられるも、藤沢に流れ着き首が洗われたという井戸

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白旗神社

創建年代は不明ながら鎌倉中期には源義経を祭神としていた神社

令和元年に建てられた義経と弁慶

昔来た時には見た覚えがなかったので一瞬びっくりしました。

社殿前

社殿

清和源氏の家紋の笹竜胆。

弁慶の力石

社殿前の灯篭は天保十年(1838)のもの。

寛文五年庚申供養塔

白旗神社前を流れる白旗川と義経風の柵

藤沢御殿堀跡

徳川家康、秀忠、家光が利用していた徳川将軍家の御殿の堀跡

遺構は現存していませんが、周辺の御殿由来の地名が残っています。

堀跡から御殿跡方面。

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藤沢宿跡に戻ります。

藤沢宿問屋場

蒔田本陣跡

藤沢宿の本陣だった場所。

本陣の現在。

藤沢御殿跡

徳川将軍家の御殿跡

家康の江戸入府から秀忠家光と三代が利用していましたが、明暦の大火で被災した江戸城再興のために建物が破却され、徳川綱吉治世初期には跡地は耕作地になっていたといいます。

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近くにあった蔵造りの建物。

桔梗屋

藤沢宿で茶・紙問屋を営んでいた商家の建物群

藤沢市に現存する唯一の店蔵と幕末に建てられた文庫蔵は国登録有形文化財指定を受け、現在では市の管理の下で内部は不定期に特別公開されています。

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藤沢宿高札場跡

遊行寺

再現された高札場

敷地内には藤沢市ふじさわ宿交流館があります。

藤沢広小路と遊行寺橋方面。

清浄光寺

鎌倉末期に創建された時宗総本山の寺院

時宗は一遍が開祖の鎌倉仏教で、念仏を唱えれば極楽浄土にいけるという思想を布教するために、諸国を練り歩く遊行を行っていました。

室町時代鎌倉公方の庇護下にありましたが、戦国時代になると後北条氏と敵対する三浦氏や太田氏との戦闘に巻き込まれ焼失。以後、後北条氏は復興を許さなかったため再興は江戸期まで待つことになります。

江戸後期建立の青銅灯篭

板割浅太郎の墓

本堂

昭和12年(1937)竣工の本堂

明治天皇御膳水

明治天皇の御膳で使われた井戸水

遊行寺明治天皇の御在所として何度か利用され、明治元年(1868)の江戸城無血開城後に京都から江戸までの道中に宿泊されたのが初めての記録です。

中雀門

安政6年(1859)竣工の境内最古の建物

建立は紀伊和歌山藩10代藩主の徳川治宝だそうですが、彼は嘉永5年(1853)に死去しているのでよくわからん。

銅鐘

延文元年(1356)鋳造の鐘

戦国時代には後北条氏により小田原城下に持ち去られてしまいますが、江戸初期に遊行寺の檀家の手で取り戻されました。

南部茂時墓

正慶2年・元弘3年(1333)、後醍醐天皇軍の鎌倉侵攻で北条氏と共に自害した南部茂時の墓

茂時は後に陸奥盛岡で栄える南部氏の当主ですが、実は鎌倉北条氏からの養子という説もある人物。新田義貞の鎌倉侵攻では、東勝寺で自害する北条一族を見届け鎌倉を脱出、遊行寺境内で家臣と自害したといいます。

長生院

永享元年(1429)創建の寺院

遊行寺室町時代以降に広まった常陸小栗城主の小栗満重・助重親子がモデルとされる物語、小栗判官伝説ゆかりの地です。

照手姫墓

小栗判官と恋仲になった相模郡代の横山将監の娘照手姫の墓

名馬鬼鹿毛

小栗判官が手懐けた暴れ馬、鬼鹿毛の墓

小栗判官のモデル小栗満重と従者たちの墓の説明

小栗判官眼洗い池

酒井忠重逆修六地蔵供養塔

万治3年(1660)に出羽庄内藩分家の旗本、酒井忠重が造立した供養塔

忠重は今の山形県寒河江市・西川町を統治していましたが、圧政が原因で寛永10年(1633)と寛永15年(1638)に領内で百姓一揆が起きています。

 

酒井忠重墓

堀田家供養塔

江戸初期の譜代大名、堀田家の当主や妻の供養塔

堀田正盛供養塔

下総佐倉藩藩主の堀田正盛供養塔

正盛は江戸初期の老中や大政参与を務め、春日局の義理の孫でもありました。

堀田正俊妻・萬供養塔

下総古河藩主堀田正俊妻の供養塔

萬は相模小田原藩2代藩主稲葉正則の娘

藤沢敵御方供養塔

応永23年(1416)に起きた鎌倉公方の内紛、上杉禅秀の乱で戦死した上杉陣営と足利陣営両方の人や家畜の供養塔

造立は乱鎮圧の2年後で、敵味方関係なく平等に弔うという時宗の教えのものです。

藤沢宿江戸見附跡

遊行寺東門付近にあった見附

遊行寺

江戸期は今よりもっと傾斜があり往来する人々を悩ませていた東海道の難所

現在の箱根駅伝の往路3区、復路8区のコースでもあり人気の応援スポットでもあります。

藤沢宿一里塚跡

東海道遊行寺坂崖上に存在していた一里塚跡

かつては一里塚傍に榎が植えられ、遠方からでも場所がわかるようになっていました。

反対側

藤沢駅に戻って撤収。