ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

鎌倉史跡巡り前編【妙本寺・妙法寺・名越切通】

どうも、先日は人の多い日曜日なのに鎌倉に出かけてきました。

早朝や深夜とかにも来てる鎌倉、何度来ても飽きないし史跡多くていい街です。

人は多いけど。

 

鎌倉駅

日曜日なので無限に人がいる

本覚寺

永享8年(1436)創建の日蓮宗の寺院

元は同地に鎌倉幕府初期に源頼朝が裏鬼門の鎮守として設置した天台宗の「夷堂」があったといい、鎌倉後期には日蓮が滞在したとも伝わります。

境内には日蓮宗総本山の久遠寺から日蓮の遺骨を分骨し納めたお堂がありますが撮影し忘れた。

岡崎五郎正宗墓

鎌倉末期から南北朝時代に鎌倉で活動した刀工、岡崎五郎正宗の墓

相州伝」と呼ばれる独自の作風を生み出し彼の作った日本刀、正宗の数多くは国宝や重要文化財指定を受けています。

夷堂橋

表門は江戸期の建築

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妙本寺

鎌倉初期の御家人比企能員一族の屋敷跡に創建された日蓮宗の寺院

比企能員鎌倉幕府二代将軍源頼家外戚として勢力拡大を試みましたが、これをよく思わない北条氏によって一族郎党討伐の呻き目に遭いました。

この妙本寺は比企氏で生き残った比企能員の末子、能本が開祖で彼の姪で頼家の娘、後に九条頼経の妻となった竹御所の菩提を弔うため文暦元年(1234)に建てた釈迦堂が前身。

その後、文応元年(1260)に日蓮が能本の父母を弔うために寺院として開山しました。

方丈門

参道

二天門

江戸後期に建立された持国天毘沙門天を祀る門

祖師堂

江戸後期に建立された鎌倉最大級の瓦葺入母屋造

ちょうどこのあたりが比企氏の屋敷推定値だといいます。

一幡の袖塚

比企能員の変で落命した比企氏の血を引く源頼家長男、一幡の袖塚

この塚は焼け跡の比企氏屋敷から見つかった一幡の着ていた服の袖をここに祀ったものです。

一幡はわずか6歳で亡くなりました

比企一族供養塔

供養塔の横にある階段を登ります

若狭局墓

比企能員の娘で一幡の母だった若狭局の墓

墓から屋敷跡と比企一族供養塔

母若狭局の墓から息子一幡の袖塚を見る

源媄子(竹御所)墓

竹御所は頼家と木曾義仲の娘の間に産まれたといいますが、実際は母は一幡と同じ若狭局だったともいいます。

寛喜2年(1230)、29歳の彼女は当時13歳の4代将軍九条頼経に嫁ぎ、数年後には子を宿しますが難産で母子ともに死去してしまいました。

この結果、源頼朝の血統は断絶することになりました。

元々墓周辺には釈迦堂が建っていましたが今は残っていません

佐竹やぐら

応永29年(1422)、佐竹氏庶流出身の佐竹与義が佐竹氏宗家の佐竹義人に攻められ自害したというやぐら

室町初期の佐竹氏は当主義盛に男子がおらず、関東管領上杉憲定の息子義人を婿養子にして家督を継いでいました。

これに反対するのが与義ら佐竹氏庶流の人々で、特に与義は上杉禅秀の乱では関東管領に反旗を翻し、乱の鎮圧後も独自に幕府と関係を持ち宗家や鎌倉公方に抵抗し続けるも、最期は鎌倉公方足利持氏の命により義人らに攻められ自害することになりました。

上村海軍大将墓

日露戦争東郷平八郎と共に活躍した上村彦ノ丞の墓

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妙本寺総門南の路地を進む

常栄寺

通称「ぼたもち寺」の日蓮宗の寺院

当時この周辺を守護していた印東祐信の妻が、龍ノ口法難で処刑前に引き回されていた日蓮胡麻ぼたもちを捧げたところ、刑を免れたという伝説が通称の由来。

なお祐信は曽我兄弟の仇討ちで有名な工藤祐経の孫にあたり、日蓮とは比叡山延暦寺での知人だったそうです。

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別願寺

室町初期まで鎌倉公方菩提寺だった寺院

鎌倉公方足利持氏の墓

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上行寺

癌や眼病除けで有名な正和2年(1313)創建の日蓮宗の寺院

安養院

嘉禄元年(1225)創建の浄土宗の寺院

藤原景清娘の塚があるしか知らなかったけどツツジで有名だったり北条政子の墓(寿福寺とは別)があるそうです。

今回は外からのみ。

大宝寺

文安元年(1444)創建の日蓮宗の寺院

元は源頼朝よりこの地を与えられた佐竹秀義の屋敷跡で、室町初期の佐竹義盛の頃まで佐竹氏の鎌倉屋敷として利用されていました。

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妙法寺

建長5年(1253)・延文2年(1357)創建の日蓮宗の寺院

寺院としての開山は延文2年で、後醍醐天皇の皇子護良親王の息子日叡が実質的な開山したといいます。建長5年は日蓮が祖とする場合。

本堂は江戸後期の文政年間に肥後熊本藩細川家より建立されたもの

この時の細川家当主は斉茲か斉樹のどちらか。

仁王門

徳川家斉の御成用に朱色に塗られたという

薩摩屋敷戦没者の墓

慶応3年(1868)、出羽庄内藩新徴組が薩摩藩上屋敷を焼き討ちにした事件の戦没者の墓

この事件を皮切りに、鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争旧幕府軍と新政府軍の戦いが始まります。

名越家供養塔

名越北条家の供養塔か

苔の階段

上段は保存のため登ることが出来ません

法華堂

水戸徳川家寄進の堂

妙法寺松葉ヶ谷御小庵跡

日蓮の布教活動拠点

護良親王の墓へ

護良親王の墓

後醍醐天皇の皇子で建武政権最初期の征夷大将軍だった護良親王の墓

たまに出てくる皇族や公家出身の武人気質の人好き。

同じタイミングで入ってきた人達みんなここまで来なくて泣いちゃった

墓からは相模湾鎌倉市街地南部を一望

うんうん、奥は新田義貞稲村ヶ崎だね。

うんうん、由比ヶ浜は和田合戦の激戦地だね。

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安国論寺

妙法寺と同じく日蓮の布教活動の拠点とした庵跡に創建された日蓮宗の寺院

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日蓮乞水

鎌倉五名水の1つ

安房国から名越切通経由で鎌倉に入った日蓮が水を求めて地面を叩くと水が湧き出たという伝説の地。

名越坂踏切のそばにあります。

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名越坂踏切

梅?

名越切通大町口

こんな坂登るの〜って思ったけどおばあちゃんも登ってたし負けられなかったです。

横須賀線線路

切通へ進む

名越切通

鎌倉から明治ごろまで鎌倉と三浦半島を結ぶ主要な道として利用され続けた切通

鎌倉七口でも特に鎌倉時代の色を濃く残す切通として有名ですが、実際は当時より地形の変化等で道の形状が大きく変わっているそうです。

それでも朝比奈切通、大仏切通化粧坂と並んで自然豊かな切通として雰囲気があります。

こんな道山城とかでよくみた

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可愛らしい仏様

サムネ

まんだら堂やぐら群

150穴以上のやぐらが集まってるやぐら群

まんだら堂の詳細は現在でもよくわかっていませんが、埋葬者は鎌倉でも武士や僧侶、豊かな商人といった比較的身分の高い人々だったと言われてます。

例年初夏と初冬にしか特別公開してないらしいのでフェンス隙間から無理やり撮影

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戻って第二切通を進みます

第一切通で一番狭いところ

通説では鎌倉時代に防衛目的でこのようにしたと言われていましたが、どうやら後年岩の崩落でこうなったらしい。

切通逗子側口

また切通を引き返して市街地へ

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銚子の井

鎌倉十井の1つ

井戸跡かと思ったらちゃんと私有地内にあるみたいです。

京急バス長勝寺バス停(逗子側)の近くにあります。

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歩きに歩いて電通鎌倉研修所前

宝戒寺隧道

昭和初期に資産家が妾の元に行き来するために掘ったトンネル

トンネルを抜けたら北条家滅亡の地、東勝寺方面に出ますがそれは後編で。

 

続き

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