ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

鎌倉史跡巡り後編【東勝寺跡・法華堂跡・鶴岡八幡宮】

どうも、前回の続きです。

宝戒寺隧道を抜けて最初は北条高時腹切りやぐらのある東勝寺跡に向かいます。

前回はこちら

senri-nchu.hatenablog.com

 

 

東勝寺

嘉禄元年(1225)、北条泰時が北条氏の菩提寺として創建した寺院跡

元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉侵攻では北条高時以下北条一族郎党約870名が立籠るも、劣勢になると寺に火を放って皆自害し鎌倉幕府は滅亡しました。

菩提寺としての他に非常時の要塞としての機能をもっていたといいます

北条高時腹切りやぐら

東勝寺裏の雑木林にある北条高時切腹したというやぐら

ここ数年は立ち入り禁止となって奥まで進めなくなっています。

25倍ズームで腹切やぐら

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滑川

青砥藤綱旧跡

北条時頼時宗父子に仕えた武士の逸話を記念した石碑

ある日滑川に銭10文を落とした藤綱が、従者に銭50文を渡し商人から松明を買い捜索させました。

周りから「10文のために50文を使うのはなんなん?」と言われると、藤綱は「落とした銭をそのままにするのは永久に損だけど、50文で松明を買ったらお金は流通するし見つかれば10文は回収できるから計60文も天下の利益だろ」という話だそうです。

宝戒寺裏口

鎌倉北条氏の家紋

紅葉山やぐら

執権北条氏に近しい人物の五輪塔や納骨が確認されたやぐら

太平洋戦争で防空壕として改変されてしまいましたが、これも戦中の遺跡として貴重です。

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宝戒寺

元は北条得宗家屋敷跡の天台宗の寺院

鎌倉幕府滅亡後、北条屋敷跡に後醍醐天皇北条高時慰霊のために建立したと伝わり造営には足利尊氏などを関わっていたといいます。

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筋替橋跡

鎌倉十橋の1つ

鎌倉初期にこの近くに三浦一族の屋敷があり、宝治合戦では橋付近で戦闘が行われたといいます。

大倉幕府跡

源頼朝以下鎌倉初期の将軍御所

現在は清泉小学校や住宅街となっています。

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法華堂跡

源頼朝石橋山の戦いの頃から所持していた観音像を納めた持仏堂に建てられた堂跡

頼朝が死去し同地に葬られると法華堂と呼ばれ、毎年彼の命日には将軍以下多くの御家人が参列したそうです。

源頼朝の墓

江戸中期の安永8年(1779)、薩摩鹿児島藩島津重豪によって整備された墓

平成元年に1度損傷しましたが翌年に修復され現在にいたります。

この墓がある場所が頼朝の法華堂推定値

島津重豪が頼朝の墓を整備したのは島津氏の祖先忠久が頼朝の落胤だったという説があり、同氏もそれ自認していた

希義公の土と石

治承・寿永の乱初期に戦死した頼朝の同母弟、源希義の墓の土と石

希義は平治の乱後に土佐(高知県)へ流罪となり、約20年後に頼朝の挙兵を聞くと立ち上がりますがすぐに平家側の追討軍がやってきて殺害されてしまいました。

平成に入ってから高知市内の西養寺にある希義墓と法華堂の頼朝墓の土石が交換され、約800年ぶりに兄弟が再開することになりました。

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法華堂北東の島津忠久大江広元・義時法華堂跡の案内板

石段を登ります

義時法華堂跡

北条義時の墓を納めた法華堂跡地

法華堂の遺構は地中に保存されていますが墓そのものはありません。

ちなみに形があるものは伊豆の北條寺で見ることが出来ます。

数年前に訪れた北條寺の義時夫妻墓

右が義時ので左が伊賀の方(もしくは佐伯氏娘)。

三浦泰村一族供養塔

義時法華堂跡の北西部にあるやぐら

宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、義時の孫である時頼らに攻められた三浦泰村一族は頼朝法華堂に籠城するも戦況を覆せず遂に自害しました。

ここはその三浦一族郎党を供養するやぐらです。

大江広元毛利季光島津忠久らの墓

江戸中期に薩摩鹿児島藩島津重豪島津忠久墓を、江戸後期に長門萩藩主毛利斉熙が大江広元毛利季光の墓をそれぞれ造営した墓所

島津忠久

薩摩島津氏の祖であり頼朝の寵臣だった忠久の墓

島津氏に伝わる忠久が頼朝の落胤だったという話から、重豪は忠久・頼朝2人の墓を整備しました。

大江広元

広元は元は朝廷に仕えた貴族で幕府創設時は政所別当や京方との橋渡しも務めた人物

広元の4男季光が後の安芸毛利氏祖となったことで、子孫にあたる毛利斉熙が墓を造営しました。

毛利季光

安芸毛利氏や長州藩毛利氏の祖先にあたる人物

大江広元の4男で、父の所領の相模毛利荘(神奈川県厚木市)を受け継ぎ毛利姓を名乗りました。

宝治合戦では妻が三浦泰村の妹だった関係で三浦氏に付き、戦後季光一族も滅びかけますが越後にいた息子経光は生き残り子孫は安芸吉田荘を領有し、後に中国地方代表する戦国武将毛利元就が出てくることになります。

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白旗神社

鶴岡八幡宮内の頼朝と実朝を祀る人物

小田原征伐後、豊臣秀吉がここに祀られている頼朝像を見て「同じ低い身分から天下を統一したけど、頼朝は血筋は良いし父義朝や祖の頼義義家から仕えてる坂東武者がいたし自分の方が成り上がりは勝ってるよね。でも天下友達や」といい像の背中を叩いたというエピソードがあります。

鶴岡八幡宮

若宮

創建は平安後期で建物は寛永元年(1624)建立と鶴岡八幡宮でも歴史が古く建築も最古の摂社

大石段

何回か写真撮ってくださいいわれて優しいから撮った

上宮楼門

江戸後期に徳川家斉が再興した建物

明治天皇鎌倉御野立所

明治6年(1873)4月15日、八幡宮裏山の大臣山から初めて日本陸軍野外演習を閲兵された場所

上宮

上宮から大石段と舞殿

大銀杏跡

ベアトが撮影した幕末の鶴岡八幡宮と比較

関東大震災で倒壊した舞殿と上宮の写真と比較

大塔跡付近

明治初期の廃仏毀釈まで八幡宮境内には多くの建物がありました

護摩堂跡付近

経蔵跡付近

仁王門跡付近

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小池民部・北條時房邸跡

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スタバ鎌倉御成町店

イカの残金微妙すぎて北鎌倉から乗った方が安かったので鎌倉駅から歩きます

巨福呂坂を抜けて円応寺前

建長寺総門

天明3年(1783)京都般舟院に建立された門を昭和15年(1940)に移築してきたもの

円覚寺

北鎌倉駅から帰ります

 

『鎌倉殿の13人』のサントラ聴きながら鎌倉史跡巡りしてみてください、とても笑顔になります。