どうも、ようやく重い腰をあげて源平合戦石橋山の戦い古戦場に行ってきました。
小田原駅から石橋山古戦場近辺までのバスが土日は運休だし、日曜日の国道135号はとても混むので車もしんどい、それなら歩きでいいね?と根府川駅からいつもの徒歩ムーブで訪問しました。
根府川駅
開業当初は東海道線丹那トンネルが開通していなかったこともあり、国府津〜熱海の熱海線として機能していました。
現在は線路が撤去された1番線ホーム跡
ホームの土台部分は開業当時の遺構です。
駅に残る機銃掃射痕
昭和20年(1945)7月末にアメリカ軍機による機銃掃射で受けた弾痕跡
先駆者様の投稿を参考に撮りましたが素人なので経年劣化との区別がしにくい。木材が抉れてる箇所がそうみたいです。
他に現存する駅舎で機銃掃射弾痕が残るのは鶴見線国道駅、中央線高尾駅、神戸線三ノ宮駅、肥薩線大隅横川駅があります。
1番線跡とホーム
関東大震災殉難碑
駅開業の翌年に起きた関東大震災の余波で発生した土石流で駅舎や停車していた車両が被災。多くの利用客や駅員が亡くなった根府川駅列車転落事故を偲ぶ石碑です。
2代目駅舎
根府川駅はラブライブ!とラブライブ!サンシャイン!!の劇中に登場しています。
国府津海岸といい根府川駅といい、小田原市はラブライブ聖地があるオタクに優しい街。ただ市街地中心部をメインにしたアニメがないのはなんでだと言い続けています。
白糸川橋梁
根府川駅と同様に初代の橋は関東大震災で被災。現在のものは2代目になります。
現在は平成3年(1991)に設置された暴風柵がありますが、それまでは列車撮影ポイントとして有名でした。
東海道新幹線の線路
根府川関所跡
元和元年(1615)ごろ伊豆方面に向かう根府川道に設置された関所跡
小田原藩内に複数設置された関所の中でも、箱根関所に次ぐ関所として交通の要衝だった根府川道の通行を管理していました。
大正初期まで遺構があったそうですが関東大震災で埋没。戦後の新幹線開発で横を流れる白糸川の形が変わったことで実際の跡地は川底に沈んでいます。
白糸川
この正面の道路を50分ぐらい歩くと北条氏直が豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために築いたという根府川砦があります。
遺構の保存状態は良好らしいですがさすがに時期的にキツイので今回はスルー。
根府川駅を通過して丘陵地帯の雑木林を進みます。
米神地区
昔から眼下の国道135号を車で走行中、いつか来てみたいと思ってた米神漁港があります。
こちらも関東大震災では大きな被害を受けた地区でもあります。
米神漁港
ここで釣りしたい。
小田原市街地方面
同じ場所からズーム撮影
石橋山古戦場
治承4年(1180)に源頼朝と平家方の大庭景親が戦った古戦場
以仁王の令旨を掲げて伊豆で挙兵した頼朝は相模西部に進出、また事前に相模三浦半島の豪族三浦氏に協力要請をして兵力増強を考えていました。
しかし三浦軍が酒匂川の増水で進軍が停止、これを見た景親は短期決戦で頼朝を叩くために急襲し戦闘が始まりました。
挙兵して間もなかった頼朝軍は兵力は少なく、挙兵に同意した工藤茂光や佐奈田義忠が討死し頼朝は敗走しました。この時北条時政の長男宗時は伊藤祐親の兵に襲われ戦死しています。
敗走した頼朝は真鶴や湯河原に潜伏、当初平家方で後に鎌倉幕府樹立に関わる梶原景時の見逃しもあり、再起のため安房に移動することになります。
石橋山トンネル
佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)
三浦義明の孫佐奈田義忠の最期の地
義忠は少数の手勢を率いて平家方の兵士と戦いますが討死してしまいました。
文三堂
佐奈田義忠と郎党文三家康の2人を祀るお堂
2人は鎌倉初期のころからすでに祀られていたとされます。
佐奈田神社に向かいます。
両名とも明治天皇の皇女で昌子内親王は北白川宮成久王に、房子内親王は竹田宮恒久王に嫁いでいました。
佐奈田霊社
佐奈田義忠を祀る霊社
義忠が持病の痰で戦闘中に声を出せなかったという逸話から、国内で唯一「喉、声、喘息、気管支炎」といった呼吸器関係にご利益がある場所として芸能関係者の参詣が多いといいます。
与一塚
義忠の亡骸を葬ったという塚
社殿
境内から相模湾方面
表出入口
石橋山古戦場一帯
石橋地区
石橋石丁場の矢穴石
ズームで拡大
早川の丘陵地帯でこれ。
地図だと道あるのに実際はない。
なんとか脱して早川地区と小田原市街地を一望できるスポット
紀伊神社
創建は平安初期で古くから早川の人々の崇敬を受け続ける神社
家まで帰還。疲れたし小田原住んでてよかった〜。
石橋山古戦場訪問で小田原市の主要史跡はほぼ制覇。
残るは小田急線と大雄山線沿線ですが、これからの時期は史跡巡りがしんどい(暑いし蒸してる)ので早めに訪問しておきたいです。