どうも、今回は今まで神奈川県内で降りたことなかった自治体の1つ、真鶴町に行ってきました。
いつかは深夜ドライブで行くかと思ってましたがそんな機会は訪れず、気づいたら自分の方が真鶴に近づいていました。
小田原からだと運賃安いので助かる
丘陵の上にある荒井城跡へ行きます
荒井城址公園
平安後期以降に築かれた荒井氏の館跡
遺構らしい遺構はありませんが空堀が僅かに残っています。
このあたりが堀遺構か
ごく普通の城址公園です
こういう坂好き
真鶴半島方面
こういう坂好き2
真鶴港
漁船や石材運搬で主に利用されている港
2024年4月より町政の混乱が改善されないことを理由に、港の管理権を一時的に真鶴町から神奈川県へ移行するとのことです。
しとどの窟
治承4年(1180)の石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房国(千葉県南部)に脱出するまで隠れたという窟
隣の湯河原町にも同じ窟がありますが、どちらも頼朝が潜伏した場所と伝わります。
当時平家側だった梶原景時が頼朝を見逃した逸話はこの窟での出来事
頼朝の時代はもっと広かったという窟内部
長年波に削られ続けたことや関東大震災の土地隆起、戦時中の海軍飛行場建設の石材切出しなどで小規模化してしまいました。
品川台場礎石
品川台場訪問はこちら⤵︎ ︎
海鮮料理が食べられる定食屋
美味そうだけど観光地料金だったのでスルー。
真鶴貴船神社
寛平元年(889)創建と伝わる神社
真鶴岬に流れ着いた木像12体と書状を見つけた平井家祖先の「平井翁」が社殿を構えて村の鎮守としたのが始まりといいます。
キノミヤ信仰という神奈川西湘から静岡伊豆エリア土着の民間信仰で有名な神社の1つです。熱海の来宮神社も同じ。
頼朝の腰掛石
しとどの窟から奉納された石
本殿前の石段
本殿
貴船丸模型
明治初期に奉納された和船「貴船丸」の模型
近代の真鶴〜小田原〜江戸間の運送を担った帆走廻船の忠実な模型として歴史的な価値があるといいます。
このように真鶴港の漁船や運送船の祈祷から始まり、村でも祭りとして定着したのが、毎年7月最終土曜と前日(2023年以降の日程)に開催されている日本三大船祭りの1つ「貴船祭り」です。
厄除厄祓門
去年から厄年以上に厄災に遭い続けているので潜った
本当に祓ってください。
恵比寿大黒社・淡路島明神社
真鶴港災害復興の碑
海沿いの遊歩道に向かいます
山下浜から小田原二宮大磯方面
真鶴半島は戊辰戦争で房総半島から移動してきた前上総請西藩主林忠崇と遊撃隊の上陸地でもあります。
彼らは小田原藩を佐幕派に引き込もうとしますが失敗し、後の箱根戦争に発展します。
琴ヶ浜磯丁場遺跡
真鶴半島の磯丁場跡の1つ
真鶴半島は安山岩の産地として有名で、古くは鎌倉初期から採石場として利用されてきました。
特に江戸時代に入ると江戸城石垣の採石場として重宝され、採石作業に多くの西国大名の藩士たちが駆り出されました。
海面に矢穴石が転がってる写真見たけどどれかわからんくて泣いた
上の写真撮って1分後に小田原城どこだっけと思って再度カメラ合わせたらビンゴ
釣人(つりんちゅ)
佐佐木信綱歌碑
釜の口方面
崖下に釜の口という知る人と知る磯釣り場がある場所
恐らく琴ヶ浜の崖下沿いかこの森林下るかとどっかだと思うけどさすがに怖すぎる。
社
本当に神奈川?四国でこんなとこ見た気がするけど
ケープ真鶴
食事処や博物館がある施設
真鶴台場跡
江戸後期に小田原藩が設置した台場跡
一部台座が現存しています。
真鶴岬・三ツ石
真鶴半島先端部にある岬と岩礁
相模湾はこの真鶴岬と三浦半島城ヶ島の長津呂崎を直線で結んだ北側一帯を指します。
学生は春休みだからか男子大学生みたいなのばっかで顔ない。
奥の岩が見る角度で3つに見えることから「三ツ石」と呼ばれ、干潮時には奥まで行けるみたいです
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岬方面
撤収
番場浦海岸・磯丁場遺跡
ここも採石場跡
本当に3つの岩に見える
採石場はここを登る
採石場跡
人工的に削られた跡が多く残っています
奥の出っ張り部分にはより分かりやすく削られた跡や矢穴がありますが、さすがに干潮時じゃないと危ないので断念。
手前部分でも見応えあると思います
撤収して次の場所へ
岩海水浴場・源頼朝船出の浜
正面の橋は真鶴道路の岩大橋
いつも車で伊豆方面行く度に見下ろしてた海岸に来れてさすがに感度しました。
干潮時か泳げば近づけそう。
路地裏
如来寺跡
元和6年(1620)創建の天台宗寺院跡
明治44年(1911)に火災で焼失し、廃寺になったといいます。
閻魔堂
調べたら数年前までは中入れてました。
途中から掠れて読めないです
でかい穴
寛文4年(1664)勧請の神社
宝篋印塔
承応3年(1654)の建立
頌徳碑
天保2年(1831)に上野寛永寺の宝塔造営に関わった宮石工棟梁の三津木徳兵衛の功績を称えた碑
左の電柱の左手前にある平べったい石碑です。
五層塔撮り忘れました
瀧門寺
境内の建物は江戸中期以降の建立らしい。
なお如来寺はここの末寺でした。
児子神社
伝説では、石橋山の戦いで頼朝に従った土肥遠平の息子万寿を祀った神社ともいいます。
遠平の妻の1人に平家側の伊藤祐親の娘万功がおり、治承・寿永の乱で父母が源平それぞれに別れたことを嘆き海に身投げてしまい、その亡骸を村人が祀ったと伝わります。
万寿の母万功は曽我兄弟の母万功御前と同一人物だとも言われています
石工先祖の碑
安政6年(1859)加賀藩の南陽金剛山長良連が、鎌倉時代や江戸時代の石材業に携わってきた先人たちの業績を称えた記念碑
歴史ある採石場ならではという感じ
駅に戻って約3時間の史跡巡り終了
真鶴、源頼朝ぐらいしかイメージありませんでしたが古くからの海船、石材業の栄えた歴史ある町なのはとても良いですねになりました。