ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

夏の青春18きっぷ消化旅行 後編【大津城・安土城・岐阜城】

二日目は大津市からスタート。この日はほぼお城巡りの1日。

前回の続きです↓

senri-nchu.hatenablog.com

【目次】

 

 

快活クラブで宿泊

今回は周りのいびき被害最小限で笑顔

義仲寺(外観のみ)

快活のすぐそばに木曾義仲松尾芭蕉墓所で有名な義仲寺があって驚き

境内は朝9時すぎないと開かないそうだったので断念。ちょうど最近『鎌倉殿の13人』全話履修したのでおおおってなった場所。

大津事件跡地

明治24年(1891)に訪日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ二世)が滋賀県警の津田三蔵に襲撃された大津事件の跡地

帝政ロシアとの外交や近代日本の三権分立意識の芽生えなど近代日本に大きく影響が生じた出来事です。

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滋賀県庁舎本館

昭和14年(1939)竣工の県庁舎

登録有形文化財指定を受けている滋賀県内を代表する戦前の近代建築です。

寺田屋お登勢実家 升屋跡

寺田屋お登勢は大津の公事宿「升屋」の経営者山本重助の次女

後に坂本龍馬寺田屋事件で知られる伏見の船宿「寺田屋」の六代目寺田屋伊助に嫁ぎ、寺田屋で幕末の志士たちの面倒を見ていたとのこと。

丸屋町商店街内

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大津宿

東海道五十三次53番目にして最大の宿場

東海道と北国街道が交わる交通の要衝です。

札の辻跡 正面奥は旧北国街道で写真左が旧東海道

旧東海道

旧東海道と京阪京津線上栄町駅付近

大塚屋本陣跡

大津宿に存在した二軒の本陣のうち一つ目の本陣

かつては三階建ての楼上から眺める琵琶湖が絶景だったといいます。

肥前屋本陣跡

もう一つの本陣

大津城

天正14年(1586)に豊臣秀吉の命で浅野長政が築城した琵琶湖畔に面する平城

浅野以降は増田長盛、新庄直頼、京極高次に引き継がれ京極時代に関ヶ原の戦い前哨戦である大津城攻防戦が勃発。京極軍は開城するも西軍の猛攻を釘付けした結果、西軍部隊を関ヶ原進出の足止めをしたことで戦後家康から称されました。戦後処理では京極は若狭小浜城へ加増転封、後釜に戸田一西を入れるも翌年には大津城は廃城となり戸田は新たに膳所城を築城し膳所藩が成立します。

大津城の遺構は膳所城や彦根城に転用され、特に大津城天守は縮小されて彦根城天守に移築されたことは有名です。

三の丸外堀石垣

三の丸側の石垣で外堀は丸屋町商店街に沿って存在

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外堀東南部跡付近

三の丸東南隅櫓跡

大津宿札の辻付近外堀跡

二の丸中堀跡・二の丸跡

手前両脇の路地が中堀跡、奥一帯が二の丸

中堀東側跡

二の丸東南隅櫓跡

中堀跡東側路地を進んだ先付近に存在した櫓跡

香集丸口橋門跡

中堀で隔たれた二の丸北東側と三の丸東側(香集丸)を繋いだ門跡

おおよそこの付近に門や橋があった

奥二の丸内堀跡・奥二の丸跡

奥二の丸跡

奥二の丸桜門跡

びわ湖浜大津駅

二の丸側から堀跡を挟んで本丸方面撮影

本丸

本丸中心部

往年は道路まで本丸、広場方面まで琵琶湖が迫っていた

大津城の碑

本丸門跡

横断歩道手前側付近に門がかかり下の道路もかつての堀跡

本丸東南隅櫓跡

正面付近に本丸門と並んで櫓が建っていた

三の丸浜町口門跡

石田家住宅洋館(石田医院)

昭和12年(1937)建築の洋館

登録有形文化財指定を受けている現役の医院です。

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膳所駅

あまりにも暑くて膳所城には向かわず移動

石山駅

今井兼平

木曾義仲の側近で乳兄弟だった今井兼平の墓

義仲忠臣として兄の樋口兼光と共に各戦闘で活躍し、粟津の戦いで義仲軍が総崩れし義仲が討死すると後を追って自害した兼平。墓は全国にありますがこの大津にも墓があります。

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現在の石山駅と兼平の墓周辺が粟津の戦い古戦場

安土駅

南口から出発

桑実寺山門

享禄5年・天文元年(1532)に室町幕府12代将軍足利義晴が仮の幕府として2年滞在した寺院の山門

桑実寺がある繖山の山中には近江守護六角氏居城の観音寺城もあり義晴は庇護下に置かれました。

朝9時から立ち入り可能ですが入山料300円取られます。入ろうと思ったけどこの時山門まで無料区域(実際は山門くぐって10分程度登った先の本堂手前で払う)と勘違いしてどこで払えばいいのか分からずウロウロして見学出来ませんでした…

でも観音寺城まではかなり時間がかかるみたいで既に体力減りかけてた身としてはリベンジの機会を与えてくれて感謝。

観音寺城がある繖山遠望

今年の夏に行く場所じゃない。

安土城天主 信長の館

安土城天主の模型や天主5階と6階部分を復元した展示物がある博物館

今回訪問してませんが、敷地周辺には県内から移築された明治時代の学校や巡査駐在所が現存しています。

安土城南側堀

安土城南にはかつて城側に沼地や蓮池、道を挟んだ反対側に水堀が存在し開拓を免れた水堀の一部が現存

安土城

天正4年(1576)から3年かけて織田信長丹羽長秀を責任者に命じて築城した山城

天主は地下1階地上6階、城郭で石垣を本格的に導入、本丸に京の内裏である清涼殿に似た御殿を建てるなど織豊期を代表する豪華絢爛な城であったと伝わります。

安土城自体は本能寺の変で信長自害後、一時的に権力者となった明智光秀の軍勢に占領されるも山崎の戦い敗戦後に不審火で本丸や天主を焼失。火災の理由は諸説ありますが二の丸は焼け残ったため城の機能は存続し、織田秀信が入城するも天正13年(1585)に安土城に程近い八幡山羽柴秀次近江八幡城築城のため廃城となりました。

大手口 東虎口跡

薬医門もしくは唐門と来客用の屋敷があった場所

大手口 西虎口跡

枡形虎口と平入虎口跡

大手口正面から西虎口方面

奥は枡形虎口で正面左は平入虎口

大手門跡

大手道

伝・前田利家屋敷跡

上中下三段の郭で構成された前田利家の屋敷跡

出入口には向かい合う羽柴秀吉屋敷と同様の虎口や監視の櫓がありました。

 

伝・羽柴秀吉屋敷跡

前田利家屋敷跡の反対側にあった羽柴秀吉屋敷跡

上下2段の郭に石塁で区分され規模も大きなものだったといいます。また安土城内で唯一屋敷の建物の全貌が判明している場所でもあります。

下段櫓門跡

下段建物跡

武者走り

上段秀吉主殿跡

伝・徳川家康屋敷跡、摠見寺仮本堂

徳川家康の屋敷跡と伝わる場所

現在は江戸後期に焼失した摠見寺仮本堂が移転し基本は立ち入り出来ません。

なお平成初期の発掘調査で信長当時はこの家康屋敷付近で道が三叉路に分岐していたことが判明。一つは現在のグネグネした道を登って二の丸に入るルート、二つ目は本来の最短ルートかつ旧大手道で黒金門と呼ばれる門経由で二の丸直結の道、残る一つは二の丸下と三の丸経由で本丸に入る三つの道がありました。

大手道石仏

大手道に転用された石仏

戦国時代後期は築城の材料として民間の石仏や石棺などが利用されていました。他の城だと大和郡山城や姫路城の石垣にも転用されています。

伝・織田信忠屋敷跡

複数の道路の要衝に置かれた信忠屋敷跡

信忠屋敷横を通る百々橋口道までは城内にあった摠見寺参拝目的の民衆の出入が許されていました。

伝・黒金門跡

二の門跡

二の丸下石垣

仏足石

中世の仏足石としては貴重な石仏

二の丸、信長公本廟

信長死後、羽柴秀吉が信長の遺品類を二の丸跡に埋葬し建てた廟

三の門跡

本丸

他の本丸建物と別に内裏と極似した御殿があった場所

信長公記』には天皇が御幸された際に迎え入れる専用の間があったと伝わります。

本丸から天主台
本丸取付台

本丸御殿の礎石が現存

安土城天主周辺の建物配置や構造は色々説ありすぎて面白いけど難しい。

天主台

後年の城郭天守台とはややことなる形状の天主台

信長天下布武の象徴として築かれた天主は金箔や黒漆、朱漆をふんだんに使い特に天主5階は正八角形の部屋、6階は正方形の部屋と独特な設計をしていました。また周辺の郭の本丸取付台や三の丸とは渡り廊下でつながっていたという説もあります。

ちなみに2023年10月11日から翌年1月下旬まで天主台周辺の発掘調査が行われます。結果が楽しみでしょうがない。

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本丸取付台跡から天主台

天主礎石

始めからなかったといわれる中央の礎石

当時は山麓まで琵琶湖が迫っていた

伝・森蘭丸、織田信澄屋敷跡

伝・長谷川秀一屋敷跡、織田信雄公四代供養塔

信長の小姓や奉行衆を務めた長谷川秀一の屋敷跡にある織田信雄四代供養塔

江戸初期に信雄子孫の織田信休が丹波柏原藩転封の際、旧領の大和宇陀松山藩内に建てていた歴代藩主の供養塔を同地に移したもの。

見寺跡

天正年間(1570年代)に織田信長が開祖で創建された寺院

本能寺の変後に起きた安土城の火災でも焼け残るも、安政元年(1854)の火災で境内の大半を焼失。その後は寺院の機能を安土城内にあった伝・徳川家康屋敷跡地に移転し明治を迎えました。

本堂跡

三重塔

享徳3年(1454)建立の三重塔

元は近江甲賀郡長寿寺にあった三重塔で安土城築城の際に移築されたもの。

二王門

元亀2年(1571)に甲賀郡柏木神社から移築された楼門

二王門と三重塔は重要文化財に指定されています。

大手前水堀

安土駅北口の織田信長

新快速の遅延で琵琶湖線結構遅れて予定していた米原乗り換えが出来なくてカツカツになってしまった

岐阜駅

金の織田信長像で有名な駅前広場

丸窓電車モ513

現在は廃線となっている名鉄岐阜市内線の車両が静態展示

岐阜市内に2005年まで路面電車が走行していたのは始めて知りました。

なお、この岐阜駅北口駅前広場のターミナル側(撮影地点)に岐阜城方面行きのバス停があります。ちょうど並んでいるときに展示車両見つけて撮りました。

岐阜城へのアクセスはJR岐阜12のりばもしくは13のりばから岐阜バス岐阜公園歴史博物館前下車徒歩5分程度です。

岐阜城

戦国時代後期までは斎藤道三稲葉山城として存在し、後に織田信長岐阜城と改めて安土城に移動するまで勢力拡大の拠点とした山城

岐阜城の起源は鎌倉時代初期の二階堂行政が京の抑えとして砦を築いたことが起源で、その後親戚関係の伊賀氏や再度二階堂氏に城主が代わるも鎌倉時代末期には廃城。約150年後の室町中期、美濃守護代斎藤利永が改修し斎藤氏の居城としたことで再び稲葉山城が再興しました。斎藤氏の没落後は織田信長・信忠・信孝親子、池田元助・輝政兄弟、豊臣秀勝、最後は信長の嫡孫秀信が城主を務めるも関ヶ原の戦いで西軍に属し、かつて城主だった輝政含む東軍諸将に攻められて落城し廃城となりました。

江戸時代に入ると奥平信昌が岐阜城の遺構を使って岐阜市内に新しく加納城を築き、幕末まで加納藩として続きました。

金華山天守

岐阜城の井戸

金華山ロープウェイ

朝から大津城や安土城で体力限界だったのでロープウェイ課金

信長居館跡と千畳敷遺跡を見下ろす

ただ信長はこの居館には住まわずに山頂で生活していたそうです。

天下第一の門

当時はなかったといわれる門

なお岐阜城下の寺院には岐阜城移築門が二つ現存しているそうです。

一ノ門跡

巨石や石垣の一部が現存

一ノ門の石垣は斎藤時代に積まれたといいます

馬場跡

堀切

二ノ門周辺石垣

下台所跡

上台所跡(旧稲葉山城候所)

斜面と石垣

信長時代は谷だった場所を通路整備と合わせて石垣も築かれたとのこと

天守

昭和31年(1956)復元の鉄筋コンクリート望楼型三重四階天守

天守設計は加納城御三階櫓や丸岡城天守を基に建てられたもので往年の天守とは階数など含めて異なります。

現在の復興天守は二代目で初代復興天守は明治末期に建てられるも昭和18年(1943)に失火で焼失。

天守

岩盤の上に積まれた信長時代の石垣

天守台上部は天守復興工事の際に積み直されたもの

池田輝政の時代に積まれたという石垣

外観だけの見学

岐阜城資料館

石垣・井戸

二ノ門跡

太鼓櫓跡

展望台から長良川岐阜市街地方面

木曾川方面

岐阜公園三重塔

大正6年(1917)に岐阜市大正天皇御大典記念事業として市民から寄付を募って建てた三重塔

建築設計は近代日本建築史に大きな影響を与えた伊東忠太です。

当時の石垣か?

稲葉山城総構土塁

金華山トンネルから長良橋交差点など一部除き東材木町交差点まで続く斎藤時代の土塁

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冠木門

織田信長居館跡

斎藤道三の居館を信長が改修し関ヶ原の戦い敗戦後に秀信が退くまで使われていた居館

居館入り口には巨大な石垣が置かれています。

斎藤時代の遺構

水路遺構

千畳敷

井戸跡

庭園跡と石垣

板垣退助銅像

明治15年(1882)、現在の岐阜公園内にあった神道中教院で暴漢に襲われた岐阜事件の現場に建てられた板垣退助の像

岐阜事件は後年「板垣死すとも自由は死せず」という実際に言ってないセリフが有名になってしまったことでも名がある事件です。その後襲撃犯が恩赦後に板垣と懇意になって北海道で再出発する直前に謎の死を遂げたのがドラマみたいで怖い。

岐阜城を後にしてバス停から岐阜駅に向かい帰路へ

豊橋駅

乗り換えに20分弱猶予があったので駅近の餃子の王将で昼食した

静岡区間寝てたらもう熱海

MyGo!!!!の広告で笑顔、11月にライブあるので参加するぞ。