ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

夏の青春18きっぷ消化旅行 前編【諏訪原城・金谷宿・京都】

どうも、9月中頃に残ってた青春18切符消化のために1泊2日で静岡と京都滋賀に行ってました。

【目次】

 

小田原駅

熱海方面の接続待ち

ここから静岡方面へ鈍行チャレンジ。

金谷駅

大井川鐵道への乗り換えが出来る駅

乗車は出来ていませんが、大井川鐵道は車で沿線を走って千頭駅奥大井湖上駅接岨峡温泉駅は訪問済。

駅からひたすら歩く

諏訪原城

天正元年(1573)に武田勝頼家臣の馬場信春が築いたとされる山城跡

武田氏による遠江侵攻の拠点として築くも長篠の戦い以降武田の衰退と徳川氏の攻撃を受けて開城、今度は徳川方の駿河侵攻の拠点として位置付けられて現在残る城郭に整備されました。

城内には武田氏ゆかりの馬出や三日月堀が多く設けられていますがほとんどが徳川時代のものだと判明しています。

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出曲輪跡

諏訪原城出入口

藪道を突き進む

藪道を抜けて北に進みビジターセンターへ

大手曲輪

大手南外堀

二の曲輪大手馬出三日月堀

大手北外堀

西側外堀

惣曲輪・二の曲輪中馬出方面

二の曲輪中馬出跡

三日月堀

番小屋跡

二の曲輪北馬出跡

二の曲輪

二の曲輪中央の土塁

内堀

本曲輪

本曲輪東側から島田市街地

下には内堀と土塁

本曲輪虎口

カンカン井戸

内堀内にあります

水の手曲輪方面

二の曲輪南側

二の曲輪大手馬出跡

現在の諏訪神社

二の曲輪南西側はここ含めて4つの馬出で構成されています。

現地の案内板

二の曲輪南馬出跡

二の曲輪東内馬出跡付近

奥が二の曲輪東馬出跡

城を後にして金谷宿方面へ

明治天皇御駐輦阯

明治元年(1868)に明治天皇の東京行幸の道中で富士山を眺めるために立ち寄った跡地

旧東海道金谷坂石畳

江戸後期の文政年間、幕命で金谷宿と牧之原台地の間にあった山道を石畳で整備した遺構

昭和末期までは江戸期の石畳は30mほどしか現存してませんでしたが、平成初期に地元住民協力の元で総長430mの石畳が復元。また、諏訪原城ビジターセンター前の交差点そばにも菊川坂石畳が現存整備されていますが完全に行きそこねました。

前日の雨で石が結構滑りやすく降りるのを断念。迂回して金谷宿跡に向かいます。

茶畑と諏訪原城方面

これぞ静岡、みたいな風景

島田市内遠望

地図見ながらこの農道下ったらなぜが行き止まりでキレた

石畳登り口側

旧東海道と坂道

金谷宿

東海道五十三次24番目の宿場

遠江最東端の宿場で駿河最西端の島田宿とは大井川で向かい合っています。両宿とも大井川増水で人の往来が不能となると足止めされた客たちで繁盛していたそうです。

金谷大橋跡

金谷宿西側の出入り口跡

東海道の難所、金谷坂や菊川坂で疲労した大名行列は宿場に入る前に橋の傍にあった休茶屋で休憩と身なりを整えてから入ったといいます。

金谷坂方面

金谷宿方面

休茶屋は橋を渡った左側、現在の金谷駅裏月極駐車場にありました

一里塚跡

金谷宿通り

定飛脚問屋跡

別名『三度屋』と呼ばれた江戸と京・大坂を往来していた民間の飛脚問屋

角屋脇本陣

柏屋本陣跡

現在の島田市役所金谷南支所にあった本陣

金谷宿の本陣は3箇所あり、柏屋本陣は『一番本陣』と呼ばれた本陣筆頭で1680年代までは徳川御三家尾張名古屋藩と紀伊和歌山藩の定宿指定を受けていました。

佐塚屋本陣跡

金谷宿本陣次席の本陣

山田屋本陣跡

貞享元年(1684)に一番本陣の柏屋本陣が不祥事を起こすと尾張藩の定宿が山田屋本陣に移り、それに伴い格上げされた経緯をもつ本陣

脇本陣

駅に戻って浜松駅へ移動

浜松駅

声優の林鼓子さん出身地、浜松市の中心駅

餃子屋どこも混みすぎで肉うどんにたどり着く

京都駅

数年ぶりの京都駅

ここからしばらく歩きました。

東本願寺御影堂門

明治44年(1911)再建の真宗本廟東本願寺の御影堂門

元あった東本願寺の伽藍は幕末の元治元年(1864)に起きた禁門の変の戦災で焼失、その後明治から昭和にかけて再建されました。

御影堂門は国内最大級の二重門で格式の高い建築様式です。

蓮光寺長宗我部盛親公埋首地

戦国時代後期の土佐の大名・長宗我部盛親の墓

関ヶ原の戦いで西軍に属し敗戦後は改易され京で寺子屋を営んだ盛親。豊臣側武将として大坂夏の陣に参陣しここでも敗れると江戸幕府により捕縛、京で処刑された後この地に首が埋葬されたといいます。

六波羅蜜寺(外観)

平清盛目的で見学したことある

周辺が平家六波羅邸や鎌倉幕府六波羅探題屋敷があった土地なので来る度笑顔になる場所。

建仁寺法堂

明和2年(1765)再建の本堂

正伝永源院(外観)

織田信長の弟織田有楽斎長益の墓所

ラーメン二郎 京都店

小ニンニク少なめ野菜アブラマシ

デロデロな麺が京急川崎店みたいで個人的には好き。他は普通でスープはちょっと下振れてたかも。

アクセスは叡山電鉄叡山本線一乗寺駅の目の前なので良好。

入口

ピントが店じゃなくて手前の男性になってしまった写真

この後は三条駅に向かって徒歩で木屋町通へ移動。

夜の木屋町通BARやら居酒屋やらなんやらのお店多いし無限に外国人と怪しい関西人しかいなくて怖かった。

写真はないです。

武市瑞山寓居跡

文久2年(1862)に土佐藩山内容堂の上洛に付き添った武市半平太(瑞山)の寓居跡

翌年の文久3年(1863)、公武合体派による尊王攘夷派排斥クーデターの八月十八日の政変が起きるまで半平太はこの場所で諸藩との応接担当を担当していました。

なお寓居跡の反対側、姉小路橋を渡ると対馬府中藩宗氏の京屋敷と桂小五郎寓居跡があります。

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加賀金沢藩京屋敷跡

加賀金沢藩前田氏の京屋敷跡

京屋敷は江戸時代に諸藩が京都一帯に設けた藩邸のことで、京都が江戸に次いで政治の中枢部であったことや商業や金融、文化などが発展していた関西圏に諸大名が出先機関として設置したといいます。

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佐久間象山寓居跡

駐車場出入口に石碑があるのみ

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瑞泉寺岩瀬忠震宿所跡・橋本左内訪問之地

豊臣家二代目関白、豊臣秀次一族墓所と幕末の旗本岩瀬忠震宿所跡

瑞泉寺は三条河原で処刑された秀次一族と秀次の首塚、殉死した家臣の墓があります。

時代は下り、幕末に同寺院は安政5年(1858)に岩瀬忠震日米修好通商条約の締結勅許を求めて上洛した際の宿所で滞在中に越前福井藩の志士、橋本左内と会談した場所でもあります。

時間が時間だったので境内は入れず。

坂本龍馬寓居跡・海援隊京都本部跡

坂本龍馬が創設した海援隊の京都本部が置かれた材木商・酢屋

往年龍馬は二階左の部屋で寝泊まりしていたといいます。

近江彦根藩京屋敷跡

近江彦根藩井伊氏の京屋敷跡

近江屋跡

慶応3年(1867)に坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺された事件現場の醬油屋跡

跡地に建っている建物には居酒屋やらコンビニ、数か月前まではかっぱ寿司が入っていましたが2023年9月上旬時点ではテナント募集でした。

六条内裏跡

平安後期の白河法皇の御所「六条内裏」跡

現在の六條院公園一帯に存在し。発掘調査では庭園の池や建物礎石が見つかったといいます。また公園横を通る高倉通りの向かい側は、同時代の摂政関白藤原師実の六条殿跡推定地とのこと。跡地は高倉会館や宗仙寺があります。

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なお、藤原師実の六条殿のあった本塩竈町の東側一帯は平安初期の嵯峨源氏源融の河原院跡だそうです。*1

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渉成園(外観のみ)

東本願寺の飛び地境内

江戸初期に徳川家光が約1万坪の土地を寄進して作庭された庭園です。

この後は宿のある滋賀の膳所に移動し行程終了

翌日↓

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