ツイ史跡巡り部活動日記

史跡やお城、江戸藩邸跡巡り、 声優イベント感想。日記というより記録

続日本100名城・杉山城と菅谷館を巡る

どうも、鉢形城を後にして寄居駅から武蔵嵐山駅まで移動します。さすがに八高線より東武東上線の方が運行スパン早いのでそっちを選択。

嵐山町の滞在は約2時間。その中で杉山城と菅谷館+その他史跡を見るかがポイント。もちろん徒歩。

 

鉢形城訪問はこちら↓

senri-nchu.hatenablog.com

 

武蔵嵐山駅

嵐山町は城以外に木曾義仲生誕地の1つ「鎌形八幡宮」や義仲の父源義賢が居住した大倉館跡があります。

場所と時間の都合で行けなかったのが悔しい。

まずは杉山城跡に向かうため東口から埼玉県道296号線(嵐山町寄居町)に出ます。

志賀観音堂

江戸期以降の石仏がある観音堂

前を走る県道296号線は昔は鎌倉街道上道、江戸期は上野藤岡と武蔵川越を結んだ街道の児玉往還とほぼ同じ道です。

中山道脇往還とはいえ、それなりに栄えていたそうで観音堂がある志賀村も宿場として繫栄していました。

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駅から20分ぐらい歩くと杉山城跡の丘陵が見えます

事前に入口調べなかったのが祟って真反対の位置に出ました。

少し歩くと搦手口の入口に出るのでそこに向かいます。

杉山六万坂の石仏群

江戸初期から幕末までの石仏

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六万坂

杉山城

戦国時代初期に関東管領山内上杉氏により築かれた山城

短期間で城の役目を終えたこともあるあるのは、詳しい築城年や城主は現在も不明。

しかしながら丘陵の地形を巧みに活かした縄張り、現存し防衛戦を意識した複雑な土塁や空堀も見どころです。

花粉症だけど尾根を突き進む

搦手口跡

空堀

北三の郭跡

非常時はここで狼煙を焚いて本郭方面と情報伝達をしていました。

北二の郭土塁・空堀

搦手口方面とはクランク状の道1本で繋がっていました。

北二の郭跡

本郭土塁

北二の郭から伸びてる小道

本郭跡

本郭南側

本郭から東二の郭と東三の郭方面

本郭下

逆"つ"の字のように東三・二の郭と外郭・出郭に挟まれています。

外郭・出郭方面

東二の郭土塁と空堀

本郭東の土塁と空堀

馬出郭西の空堀

南三の郭跡

南二の郭跡

井戸郭方面

井戸郭跡

南三の郭西虎口

井戸跡

南三の郭西虎口から同郭西の空堀

出郭大手口

写真正面のクランクした道の上は外郭跡

傾斜があるので登りにくい。

丁寧に整備されているので散策しやすい山城だと思いました。

ここから菅谷館まで移動します。

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稲荷塚古墳

7世紀後半の円墳

中世には盗掘されていたため副葬品の発掘はありませんでしたが、中世の人骨が出土したそうです。

かつては墳丘上に稲荷塚が置かれていました。

墳丘南側が削れて露わになっている横穴式石室。

鉄格子外から石室内。

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菅谷館

平安末期から鎌倉初期に活躍した北関東豪族・幕府御家人畠山重忠居住の館跡

鎌倉街道上道沿いに館を構えた重忠は、元久2年(1205)の畠山重忠の乱の時にここから鎌倉に南進し、二俣川幕府軍と戦闘することになります。

重忠以降は源氏姓畠山氏が所有したといいますが、室町後期まで空白期間が生じた後、室町後期から戦国時代にかけて山内上杉氏後北条氏の城となったと伝わります。

戦国時代に改修があったとはいえ、中世館の遺構が色濃く残る遺跡です。

搦手門跡

二の郭跡東側

三の郭土塁と畠山重忠

畠山重忠公像

昭和4年(1929)造立の竹杉コンクリート製の像

本郭土塁と空堀

本郭跡

南郭跡

南郭から二の郭に向かいます。

二の郭跡南側

本郭空堀

蔀土塁

正てん門跡

復元木橋

空堀

西の郭跡

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2024年3月半ばにオープンしたばかりのコスモス

駅西口近くなので町内散策前の食料調達にオススメ。

武蔵嵐山から小川町に戻って八高線で立川に戻るコース

さすがに残りバッテリー数%は帰るまでは絶対持たないので駅でレンタルバッテリーを初利用。これ便利だけど利用前にバッテリー切れたら本当に悲しい。

 

これでようやく埼玉県内の100名城シリーズはコンプリート。

まだ県内は関宿城岩槻城深谷城、飯能の方にいくつかある戦国時代の城跡とかは行けたら行きます。