前回の続きです。
前回は結城市到着後、実質お墓巡り記事みたいな感じになっちゃいました汗。
<目次>
結城城
結城城縄張り図
御廟から結城城跡へひたすら歩く。
その前に結城城の縄張り図確認です。図は結城市観光案内ホームページから引用。
外堀
南東部の外堀跡
外堀跡を挟んで大谷瀬口方面
大日堂
外堀跡の水田に挟まれている大日堂。
草が生い茂ってて奥までは行かず
大谷瀬口
手前の細い農道を通って丘上にある住宅を通過できるらしいけど、なんか怖いのでスルーしました。
右手の茂み地帯は内堀跡
大手口
登城ルートはこの道を右方面に進んでいく。若干『とまれ』標識辺りで道がクランクしてるのがポイント高い。
また外堀の広さも今の倍以上あり、わかりやすく写真で見ると右手前から右奥の青い住宅付近まで広がっていました。
奥の広場はゲートボール場で地域の憩いの場。
その真横が登城ルートです。
二の丸
二の丸跡から本丸に進む道。
両脇には内堀が現存。
こっちは見やすい。
茂みで見にくいが深い堀が残っています。
本丸
在りし日は結城御殿が広場一面に建っていました。
結城城跡案内板
結城氏による統治が秀康期で終了後、元禄13年(1700)年から幕末まで水野氏による統治が続きました。
戊辰戦争前後には藩内で佐幕派尊皇派で対立し、新政府軍の攻撃もあって落城しました。
実城と北口
北口は写真奥の道路から水田に通る小道付近。
本丸跡に戻り三の丸跡に移動します。
反対側から。
三の丸跡
普通の住宅街です。
西ノ宮口
永正塚
グループマップ曰く史跡らしい。
首切り地蔵
この付近が処刑場だったことに由来するそう。
結城行在所跡
明治40年(1907)の陸軍特別大演習実施にあたって、結城町に大本営が設けられました。
天皇と政府高官たちが一週間だけ滞在する用に建てるのすごいなぁ。
現在の結城行在所跡。
このあたりまで来て汗でTシャツがやばいことになってて焦る自分。着替え複数枚もってきて正解だった。
ひとまず市中心以外の史跡は見回れたので、残りは中心部をサクッと散策します。
市内中心部
中澤商店見世蔵及び主屋
明治末期の蔵。国登録有形文化財。
当地の大地主中澤氏の分家が大正後期にここに移り住んだという。
現在は結城紬の卸売商を営んでるとのこと。
光福寺
幕末の結城藩江戸詰家老・水野甚四郎や新政府軍参謀・植田楠次郎、会津藩兵士の墓があります。
この植田楠次郎って土佐藩の上田楠次とは別人か?当人は高崎で死亡したらしいので。
弘経寺
結城秀康が文禄4年(1595)が早世した息女松姫を供養するために建立した寺院.
江戸時代には浄土宗の学問所関東十八檀林の一つとして有名でした。
砂岡雁宕の墓
江戸中期の俳人
伝 結城城大手門
弘経寺の裏門ですが、伝承が正しければ結城城唯一の遺構。
株式会社武勇
江戸後期に越後から移住してきた保坂氏が営む日本酒醸造所。
敷地内の複数の蔵が国登録有形文化財。
御朱印堀跡
稱名寺
結城朝光と親鸞ゆかりの寺院。
境内には朝光の墓があります。
結城朝光墓
実際には朝光だけでなく初代から4代目までの遺骨が収められているそうです。
御霊屋門
室町時代建築。
二条門
江戸時代建築。
磯田邸居宅
明治中期建築。
秋葉糀味噌醸造
現在の正面外観は、昭和初期に店前の道路拡張工事に伴い前面1間半切り取った経緯があります。
小倉商店店舗兼主屋
明治初期の建設で国登録有形文化財。
建物は当時の部材をそのまま使っていて、伝統的な商家の雰囲気を伝えています。
結真紬 見世蔵主屋
明治後期の建築で国登録有形文化財。
戦前まで呉服店の見世蔵と住居として利用しており、戦後に紬問屋として営むようになった場所です。
後半の蔵とかはちょっと立ち止まっただけなので、じっくり見学出来ませんでしたが市内に色々残ってるもんですね~になりました。
次は日光編に入ります。
結城編(完)
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