どうも、最近休みの日は家でクネクネくんになってるせいで史跡巡りサボっていましたすみません。
でも来月半ばに数年ぶりに遠出するのでそれまでは辛抱です。それも記事にするのでお楽しみに
それはともかく実は本日、今まで深夜に史跡巡ったり下道で県外遠征してきた車とお別れをしまして、代わりに新車をお迎えしました✌️
ダイハツタント
真夜中に下道で河口湖や松本・高遠を初め、直近2年ぐらいに訪問した県内外の史跡はだいたいこれで行ってた。10年来且つ家族からの譲り物だったので大往生。
プジョー208
乗り心地が違いすぎる。最新の車ということもあって機能が充実。
でもさすがにこれで深夜史跡巡りはちょっとできないですね。それ用に安い車買おうか検討中
そんなこんなで新車でドライブがてら三増峠古戦場を見に来ました。
三増峠(三増)古戦場
永禄12年(1569)に起きた武田信玄と北条氏の戦い
この戦いは同年に行われた信玄の小田原侵攻が失敗し、武田軍が甲斐に引き揚げる道中に北条軍より追撃されたことがきっかけで発生しました。
緒戦は北条綱成勢の攻撃による武田方の浅利信種戦死など北条方優勢だったものの、武田四天王の一人山県昌景による奇襲攻撃で形勢逆転、北条支城の田代城落城や津久井城包囲によって北条軍は破れることになりました。
なお、戦闘中に現在の厚木市荻野付近まで2万の兵を率いていた北条氏政は合戦の敗北を知ると撤退しましたが、この軍勢が合流していたら武田軍が破れていたかもしれないといいます。
その後武田北条は互いに破棄していた甲相同盟を復活し、同盟関係は越後上杉氏の後継者争いがきっかけの御舘の乱が引きおこるまで続くことになります。
合戦陣立図
実際この図は戦闘後半の状況らしく、開戦当初はこれより東側(現在の愛川霊園付近)に北条軍が待ち構え、この北条軍前を囮の武田小荷駄隊が通過し本隊は愛川町役場付近に陣を構えていたそうです。
参考ブログ【https://tamaki39.blogspot.com/2016/12/blog-post.html?m=1】
武田信玄布陣跡地方面
首塚
北条武田両軍の戦死者を供養する塚
両軍の死者は合わせて3000〜4000人にもなったといいます。膨大な人数の首を誰が埋葬かはよく分かっていないそう。
供養塔は宝永3年(1706)建立。
胴塚
上記の首塚と同じく戦死した兵士たちの胴塚
首の無い亡骸は近くを流れる志田沢の岸に埋められ塚が建てられたといいます。
塚と思われる石は同地に現存しているらしいですが、2023年現在解体業者の敷地になっているので見ることは出来ない?です。
10年前までは雑木林を降りて見れたそうな。
西坂
田代城跡
後北条氏家臣・内藤秀勝・秀行親子が城主だった城
三増峠の戦いで武田軍に攻め落とされてしまいました。
ちなみに内藤親子は同じ後北条家臣の津久井(築井)城主だった内藤氏とは同族。
城跡の愛川中学校
校舎横の小道から富士居山へ
富士居山も田代城の曲輪に含まれていたという説があるみたいです
平場
当時はこのあたりに狼煙台が設置され武田領との最前線だった津久井城との連絡を行っていたとも
山奥は行けません
志田沢案内の杭
真田昌幸布陣跡地
三増中原辻の神仏
深堀沢
うみたてたまご 卵菓屋
新鮮な卵や野菜、スイーツが買えるお店
ここ目的で来ている人が多かったです。自分はソフトクリームと卵を購入しました。
このあたりも合戦終盤の激戦地でした。