どうも、先日都内で大名屋敷跡巡りした際最後に上野公園を訪れました。目的は旧寛永寺の伽藍跡巡りでしたけど。
先日の記事↓
軽く記事に上野東照宮の写真は貼ってますが、境内の灯籠の写真は載せてなかったので今回ここで何枚か載せることにしました。
水舍門をくぐると、境内には石灯籠が280基と外様・親藩大名から奉献された銅灯籠50基があります。銅灯籠は全て重要文化財指定を受けています。
基本的にこれら灯籠の大半が慶安四年(1651)の4月17日に奉献されていますが、これは上野東照宮が徳川家光によって改築された年月だからです。
余談ですが、この3日後の4月20日に家光は死去することになります。
東照宮本殿・唐門
唐門の前の参道両脇には銅灯籠が立ち並びます。
なお、銅灯籠で奉献が慶安四年ではないものは寛永五年(1628)奉献の藤堂高虎と慶安五年(1652)奉献の毛利綱広のみです。
初代越前福井藩主・結城秀康の三男である出雲松江藩主・松平直政奉献
出羽久保田藩二代藩主・佐竹義隆奉献
出羽米沢藩二代藩主・上杉定勝奉献
加賀金沢藩3代藩・前田光高奉献
唐門の左右に設置されている御三家灯籠
左から
本来、唐門の傍に置かれるのは御三家筆頭の尾張藩のはずですが、この時の藩主・徳川光義(のち光友)が幼年かつ官位が頼宣頼房より下回っていたことが原因といいます。
反対も同様
安芸広島藩二代藩主・浅野光晟奉献
伊勢津藩二代藩主・藤堂高次奉献
美作津山藩森家二代藩主・森長継奉献
長州萩藩二代藩主・毛利綱広奉献
肥後熊本藩細川家四代藩主・細川綱利奉献
赤穂事件では、切腹処置を宣告された大石内蔵助ら浪士十数名を下屋敷で預かった人物で有名です。
案内板には誰が灯籠を奉献したかリストが載っています。灯籠は東照宮創建の寛永四年から江戸中期から幕末の文久元年まで奉献され続けていました。
次は残りの銅灯籠と真田信之奉献の石灯籠目的で訪問するか。